金波銀波(きんぱぎんぱ)⑦‐ⅲ

 窒息の恐怖に駆られた瞬間、両手でドンと胸を突かれた。いや、尾鰭で腹を打たれたのかもしれない。秀真はセイレーンの誘惑から解放されて波間に頭を出した。現実の出来事だったのか、あるいは幻覚だったのか。湯船に浸かって気持ちよくウトウトしている間の、短い夢のようでもあったが、確かに甘酸っぱい誰かの舌触りが残っていた。

「おおーい」

 勇吉さんの声が聞こえた途端、身体が喉笛に溜まった潮水に反応して、激しくせ返った。飛んで来たのは救命ブイだった。捕らえたときには、すぐ傍に和船が揺れていた。船縁ふなべりには勇吉さんを含む三人の姿があった。

「悪かったね。俺のせいで、とんだ目に遭わせちゃって」

 水中眼鏡を外した勇吉さんが、バスタオルを頭から被せて背中をさすってくれた。守り袋も紐も、Tシャツもろともグショグショになっていた。靴下のブヨブヨした感触が気持ち悪い。咳をするたび、鼻と喉に潮水が込み上げた。ペットボトルを黙って差し出す手があった。ブクブクとうがいし、海に向かって何度か水を吐き出すと、徐々に呼吸が整ってきた。櫓を漕いで小回りを利かせ、こうした非常時に対応するのが和船チームの役割だったのだ。

「余計な真似して、却って迷惑かけて、すみません」

「何の。さすがは秀造さんの身内だ」

 小舟はゆっくり動いていたが、バランスが悪かった。定員オーバーか。しかし、一人が勢いよく立ち上がって他の船と手振りで合図を交わし、

「やったよ。捕まった」

「おお」

 彼らの声は耳から耳へ抜け、意味を受け止められなかった。キョトンとしていると、勇吉さんが肩を揺さぶって、

「網に掛かったんだよ」

 俊徳丸の大漁旗が掲揚され、ドドンと花火が炸裂した。赤や黄色の菊花が夜空を焦がす。

おかに合図を送ったのさ。喜んで待ってろってね」

 小舟は俊徳丸の船腹にぴったり寄り添った。

「危なっかしいから、あっちへ戻んな」

「はい」

 ふなばたから響彦が身を乗り出し、腕を伸ばしていた。一呼吸ののち、秀真は俊徳丸に引き上げられていた。

「すいません、お騒がせしちゃって……」

 土下座ぐらいしなければならないかと思っていたが、意外にも慶舟じいさんはニコニコして、

「いや、お手柄。あんたのお陰で仕留められたのかもしれんよ」

 響彦がジップパーカーを肩に掛けてくれた。フードまで被せて、上から頭を撫で、

鱗族りんぞくと出くわしたでしょう」

「きっと、あんたを気に入って、進んで網に潜り込んできよったんじゃ。仲間のピンチを見過ごせずに飛び込んだのが、心を打ったのかね。見るかい?」

 慶舟じいさんは半ば放心して力なく頷く秀真を導いた。は、生け簀の中に座って目を閉じていた。腰の辺りまで水に浸かり、心持ち顎を上に向けて口を結び、瞑想に耽っている風だった。曝け出された尖った胸乳むなぢが痛々しい。

「さて、帰るぞい」

 野太い声のすぐ後に、また花火が上がった。威勢のいい爆音が轟き、五色ごしきの散弾が噴水のように伸び上がって闇に溶けた。船団は満月の磁力を振り切り、港を目指して航跡を刻んだ。

 秀真は悲運の導きを感じながら、もう一度、物言わぬ囚われの人魚姫を見下ろした。スーッと、頭から爪先へ血が下がった。腰の力が抜けて、へたり込み、頭が床に着くのと前後して視界が闇に閉ざされた。瞼が開かない。だが、耳は敏感に周囲の声を捕らえていた。

「これですね、秀造さんの遺品」

 ベルトループに吊るしてポケットに忍ばせていた十徳ナイフを引き出したのは響彦だ。

「彼が持ち歩くことには何の問題もありませんけど」

 ご丁寧にブレードを広げて装備を確認しているらしい。

「あの短い時間に水の中でそんな芸当をやってのけたってのかい?」

 名前は知らない、乗組員。響彦は鼻で笑って、

「しばらく開いた様子がないから、違うでしょう。いくら手先が器用でも、そんな離れわざは」

「だったら、いつの間に」

 と、慶舟じいさん。

「彼が一人でフラフラ出来る時間があったのは、ここ二、三日」

「大した偶然だ。運がいいのか悪いのか……」

「その隙にじょうを通じたっていうのかい」

「シッ!」

「……すいません。だけど、どこで接触したもんだか。まさか人魚サカナが泳いで浜に上がってくるとも思えんし。ひょっとして、の洞窟、あそこに来たのか」

「さあて、ねえ」

 別の誰かが少し後ろで、呆れを通り越して冷笑を滲ませ、

「おとなしそうな顔して、とんだ色ボケ小僧だ」

「よしなさい。お陰で難なく捕獲できて、感謝したいくらいじゃわ。のう、響彦」

「ええ。は充分だったわけですね。後は彼の気力と腕次第。それに、僅かでも事前に人魚サカナの血が包丁役以外の手で流されていたら宴は成立しない。この二の腕の傷が別の事情で出来たんじゃないのを祈りたいぐらいですよ」

 そのとおり、俺がやった。井戸端で、彼女が可憐な花を欲しがったのでナイフで茎を切り、髪に挿した後、細かいことは忘れたが、ともかく、特別な関係になったのだ……と、秀真は三晩みばんに渡る月夜の逢瀬を回想した。彼女は声を出せなかったので会話は出来なかったが、薄明かりの中、互いに目を見つめ合って心を通わせたつもりだった。彼女が銀色のブレードを指差したので手渡すと、自ら傷をつけようとしたので止めて、望むとおりにしてみせた。どこに忍ばせていたのか、小さな貝殻を差し出されたので受け取り、それに似た形の傷を刃の先端で小さく、剥き出しの二の腕に刻んだのだ。白蠟の肌に浮かび上がったハート型は人血と同じ深紅だったが、舌の先で舐めると幾らか塩味えんみが強い印象を受けた。

「あれ、こんな日にゴムながでも穴開きサンダルでもなくて、普通の靴?」

「こっちに来てから喪服のとき以外はでしたけどね。ご丁寧にソックスまで履いているのは、どういう意味か」

 響彦の手がスニーカーと靴下を立て続けに脱がした。グッショリ海水を含んでいるので手こずっていたが、

「これを隠したかったんでしょう。人魚サカナに咬まれたかな。ほら、小さいけど、くるぶしの下に、ちょっと深い傷が」

「ああ……」

「よくわからんが、お愉しみだったってワケだ」

 船が港に戻るまでの間、秀真は波に揺られながら様々な悪口雑言を聞いた。響彦や慶舟じいさんや他の乗組員の嘲弄。だが、それは日頃の屈折した劣等感から来る空耳かもしれない、とも思った。周りと違う、どこか普通でない家庭に育ったために生じた長年の引け目のようなものが、海水を吸って膨張し、内側から自分を圧迫しているのではないか……。ただ、彼らにけなされたのが事実なら、立派に役を務めて見返してやりたいとも考えた。しかし、それは取りも直さず、半人半魚の乙女を切り裂いて宴に供すことなのだった。

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