金波銀波(きんぱぎんぱ)⑦‐ⅱ

 夕風の中、会食が終わりに近づくと、ところどころで早く仕事を済ませて酒を飲みたいという声が漏れ、秀真と響彦は顔を見合わせて小さく笑った。

 出港するのは慶舟じいさん所有の俊徳丸しゅんとくまるを初めとする漁船、及び船外機を装備した小型の和船、都合七艘。秀真と響彦は俊徳丸に同乗した。

「……月が出た。行きますかの」

 慶舟じいさんが静かに、厳かな声で宣言し、傍らの一人が素早く片手を挙げて合図した。船繋ふながかりが解かれると共に、一斉に湧き上がった鯨波げいはに圧倒され、秀真は思わずよろめいた。響彦が黙って肘を掴んで支えてくれた。遠ざかる埠頭に、魚塚夫妻と美波が並んでいた。希望と懸念を映した彼女の瞳が、小さくなりながら、いつまでもはっきりと瞼に閃くようだった。

「ああ、いかん。ウッカリしとった」

 慶舟じいさんがポンと手を打って、

「あんたら、慣れとらんからな、万一に備えて、あれを着せてやらにゃいかんかった」

「ライフジャケットですか?」

 響彦が訊ねると、

「うん、用意していて忘れてしもうた。ここにあるのは救命ブイだけ」

 響彦は秀真を顧みて、

「泳げます?」

「……要は落ちなきゃいいんでしょ」

「そういうこと」

 足の着かない深さで泳いだ経験はなかったが、虚勢を張って、

「平気です」

「そんなら、あまり乗り出さんように気をつけて。船酔いは、大丈夫かな?」

「はい」

「夏なんだから、いきなり心臓が止まりはしないし、もしものときは網で掬ってやるからさ」

 傍にいた一人が冗談を言い、皆、朗らかに笑った。響彦もニヤニヤしている。秀真はプイと顔を背けた。そのまま仰ぐと、空はようやく夜らしい色に染まり、ジルコンの破片を思わせる白銀の星々が瞬き始めていた。湾曲したを右に見ながら南に進路を取る。水平線の上では海から生まれたばかりの瑞々しい満月が、水滴を払うように微かに震えていた。

 船は月光を目標に航行しているらしい。時計がないので、どれくらい経ったか見当もつかなかったが、慶舟じいさんたちは月の高度で距離や時刻を把握しているのだろう。

「そろそろじゃな」

 しわがれた呟きを受けて、響彦が目顔で合図しながら前方を指差した。秀真は立ち上がって船縁ふなべりに片手を突いた。濃藍こあいの海面を白いレースの襞がうねっている。もうすぐサンゴ礁の外へ出るのだ。と、思った瞬間、暗い色をした無数の宝石の粒が弾けて四方に飛び散った。

「見えたぞ」

 仲間の一人が鋭く叫ぶと同時に、他の船からも興奮した声が上がった。何頭いるのか、人魚は尾鰭を跳ね上げ跳ね下ろしては、船団を嘲弄するように少しだけ近づくと、すぐにスピードを上げて離れた。裸の腕と、たゆたう長い髪が仄かに見え隠れする。

 秀真は舷側で身体を支えたまま、眼前の光景に茫然と見入っていた。慶舟じいさん以下、ベテランの船乗り五人が素早く準備を整えたが、そちらはまるで他人ひとごとめいて、テレビの画面をぼんやり眺める程度にしか映らなかった。言い知れぬ昂揚が炎になって、メラメラと内側から胸をねぶっていた。秀造もこうして眩暈を堪えながら、その辛さを恍惚として甘受していたのだろうか。

 ザブン、ザブンと立て続けに響く水の音で我に返った。比較的若い三人が水中眼鏡とフィンを着け、匕首あいくちを握って飛び込んだ。海に入って網を広げ、人魚を追い込むのは漁船の乗組員で、和船のメンバーは賑やかしに過ぎないらしい。

「息は、平気なんですか?」

「切れそうになったら上がってくるさ」

 慶舟じいさんが錆びた声で笑った。

「手に持ってたのは……」

「得物がないと危険でね。あいつら、噛みついたり引っ掻いたりしよるから」

「頸動脈を切られて死んでしまった人も、いたそうですよ」

 響彦が添えた一言に、皮膚が粟立った。

「それでも、どうにかして無傷で網に捕らえにゃならん。包丁役以外の者が、前以まえもっの血を流してはならんのだ」

 生け捕りにしなければ意味がないという、洋子医師との会話を思い出す。人魚は吉事の象徴だからだ。

「彼らが身を守るために、人魚を殺したらどうなるんですか?」

「文字通り、海の藻屑ってところじゃな」

 慶舟じいさんは喉の奥で引きった笑い声を立てた。

「美波ちゃんのときは?」

「あの子は鮫に襲われたらしくて、助けを求めるように自分から網に掛かろうとしてたから、連れてきてやった。港に着く前に、もう死んでしまったかと思ったが……」

 慶舟じいさんが言い終わらないうちに、誰かが海面に顔を出した。様子がおかしい。秀真たちは船灯を頼りに目を凝らした。

「勇吉さんだ」

 水中眼鏡のせいで相貌も判然しないが、響彦には見分けがついたらしい。立ち泳ぎしながら両手を上げて、合図を送っている。護身用の抜き身を失ってしまったことが窺えた。

「足がったのか」

 慶舟じいさんの一言で、秀真は自分でも意想外の行動に出た。ちょうど船舷に立っていたせいだったが、響彦が勇吉さんだと判別しなければ微動だにしなかったろう。顔見知りが危険に晒されているのを、黙って見ていられなかったのだ。頭上に響彦の声を聞きながら飛び込んでいた。多分、呆れてバカとでも叫んだに違いない。何とでも言えと心に呟き、必死に身体を動かした。長期戦になって体力を失わなければ沈む心配はなさそうだったが、救命道具の一つも持たずに近づいてどうするつもりかと、今は亡き秀造に一喝された気がした。

 遠くない場所で飛沫が上がった。人魚だ。もし、逆上して襲いかかってきたら……。心臓がギクリと軋み、腕が止まりそうになった。が、柔らかく絡みつく海水が心地好く、進行方向の遙か彼方に浮かぶ丸い月が自分を招いているようで、恐れより奇妙な陶酔感に支配され、目的も忘れて夢中であおぐろい水を掻いていた。頭の芯が悩ましく痺れている。時間が止まって、ずっと目指すところへ辿り着かなければいいとさえ思った。ひたいに貼りつく髪の先にまとわりついたマリンブルーの雫が、睫毛を伝って目の中に落ち、反射的に瞼を閉じた。手足の動きがバラバラになり、考える力が失われていった。月の引力のせいか、人魚たちの眩惑だろうか。

「ワッ」

 両足を垂直に引っ張られ、脳天まで海中に沈んだ。鼻と口に猛然と鹹水が進入する。支えを求める指先が虚しく水の壁に食い込んだ。そのとき、開かないはずの目が正面の人影を捉えた。相手は秀真の二の腕に手を掛けて身を引き寄せた。昆布のように揺らぐあい海松みるちゃの長い髪。人魚は唇をこじ開け、硬く張り詰めた舌を差し入れてきた。

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