金波銀波(きんぱぎんぱ)⑦‐ⅰ
〈7〉
結団式の後は曇天が続いたが、響彦の話では、男どもは当夜は晴れるという慶舟じいさんを信じて船の支度を進めているという。
秀真が島に着いて十日目、人魚漁、当日の朝。老姉妹は早くから掛軸に向かい、数珠を揉んで祈禱していた。伽羅の香りは廊下を伝って家の隅々まで染み渡るかのようだった。
貝塚一家の内には緊張感が漂い、食事の間もほとんど口を利かないほどだった。秀真も調子を合わせて黙っていたが、蕃次郎までが神妙な面持ちで畏まっているのが笑いを誘った。
「徹夜になるかもしれないから、仮眠を取っておいた方がいいですよ」
響彦は四畳半で
「こっちはダメだよ」
近づいてくる蕃次郎に囁きかける。猫はピタリと足を止めて二、三度まばたきすると、秀真の胸を目がけて伸び上がった。
「よしよし」
蕃次郎を抱えてやると、また刀自らの重苦しい二重唱が聞こえ始めた。
「あっちもアウトだな。散歩でもするか?」
玄関へ向かって歩き出した途端、猫はむずかって腕をすり抜けた。一言ぼやくように小声を漏らして背を向け、スタスタと奥へ引き返していった。
「外は嫌なのか」
苦笑いしてスニーカーを履くと、人の気配がした。美潮だった。
「お出かけ?」
「ええ。少し」
「――船に、乗るんですって?」
瞳に憂慮の色。
「慶舟さんに勧められたんで、邪魔になるかもしれませんけど……父がどんな気持ちだったか、わかるかもしれないと思って」
「……秀造さんも、決まって沖へ乗り出してたわ。だから、これ」
彼女はエプロンのポケットから、細い紐の付いた布の包みを取り出した。赤い守り袋だった。受け取って軽く握る。幾重にも折り畳んだ紙片の感触が伝わってきた。
「ありがとうございます」
秀真は首に紐を掛けた。小さな守り袋はシャツの中、
「無理はしないでね。血を見るかもしれないから、嫌だったら陰に隠れて、目をつぶっていて」
「でも、どっちみち後で包丁を握らなきゃいけないから」
わざと笑顔で応えると、美潮の表情が更に曇った。愁眉が痛々しい。
「おかしなものね。いざ、その日が来てみると、何だか怖くって。あなたが危険な目に遭いやしないかと……」
「もし、何かあったとしても、皆さんが守ってくれると思いますよ」
「……そうね。きっと。一人もケガしないで帰ってくるように、祈ってるわ」
「じゃあ、ちょっと出かけてきます」
漁港は東岸、貨客船が往来する港とは丘を挟んで反対側にあった。さしずめ龍のうなじといった辺りか。重く垂れ込めた雲の下、鉄色をした蒲鉾形の倉庫が並んでいる。鮮やかな大漁旗は一様に肩を窄めてうなだれていた。岸壁には
「あら、おはよう」
そこに紛れ込んでいた美波が振り返った。網をほどいて解放されたかのような、海から揚がったばかりの鮮魚にも似たピチピチした肢体。ノースリーブにサブリナパンツ、靴はスリッポン。色はすべて青系統で、上から下へ順に濃くなっていて、身の締まった光り物を想起させたが、彼女が気を悪くするといけないので、口には出さなかった。
「下見?」
「いや、ただ、何となく。美波ちゃんこそ、どうしたの?」
「出前」
魚塚氏の特製ランチか、男衆の傍には重箱らしい風呂敷包み。一人が繕いの手を止めて、
「器は後で洗って返すよ」
「はぁい。どうぞごゆっくり」
白魚のような指がヒラヒラと躍ったが、それも水中に翻る鰭を思わせた。彼女は畳んだアルミカートを引き摺って、
「さて、また帰って手伝わなくちゃ」
「忙しい?」
さんご食堂へ向かうべく、来た道を引き返しながら、
「今夜の支度。テントがあったでしょ。漁に出る前は船に乗る人みんなで、あの前に
「そうか」
「暢気ねぇ。当事者なのに」
「どうも実感が湧かなくって。貝塚家はピリピリしてるけどね。蕃次郎まで一緒になってさ」
「フフフ」
「……あれ?」
風向きが変わったと思う間もなく、パラパラと雨が落ちてきた。勢いが強くなっていく。秀真は美波の手を引いて歩調を速めた。が、
「雨宿りする場所もないな」
「アハハ」
防風林に挟まれた道へ逃げ込んだが、木々の葉も覆いになってくれなかった。もちろん、身を潜める洞窟などありはしない。
「いいや。観念した」
「いっそ気持ちいいくらいね」
固く手を握り合ったまま足を止め、重い空を仰ぐ。濡れてまつわる服が邪魔で、何もかも脱ぎ捨ててしまいたくなった。彼女も同じことを考えていそうに見えた。自然に指先に力が籠もった。自転車に乗った誰かが、二人には見向きもせず一散に脇を走り抜け、
雨は間もなく、逆さに天上へ吸い込まれて消えるように止んだ。雲が晴れていく。
「日が照り出した。また暑くなりそうだ。すごいね、慶舟さんって。これで夜はもう、バッチリなんだろうな」
青空が広がる様子を見上げるうちに、服も少しずつ乾き出していた。
「……きっと、漁も成功するわ」
「そうだね」
「また後で」
急ぐらしい。彼女は秀真の目を見つめながら、もう一度強く手を握り締めて放し、ニッコリ笑って駆け出した。ペンダントの黒い珠が弾んでいた。それが何故か不吉な
南国の夏の長い昼に夜が取って代わろうとする頃、岸壁で夕食が振る舞われた。暮れなずむ空の下、エプロンを着けた魚塚一家が、さんご食堂から運んできた鍋やタッパーをテント内のテーブルに並べて給仕を務め、出漁する男どもは車座になって腹ごしらえに勤しんだ。女性たちは家に籠もって船の安全を祈るのが決まりになっているといい、美潮と刀自らも赤い瑪瑙の数珠を握り、緊張した面持ちで秀真と響彦を送り出して戸を閉めた。
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