金波銀波(きんぱぎんぱ)⑥‐ⅳ

「あんたらも、座って座って」

 座布団を宛てがわれ、紙コップで酒が回ってきた。四角いローテーブルには適当な間隔で乾き物を盛った紙の皿が並んでいる。気楽な酒盛りといったムードに秀真は拍子抜けした。

「そう固くならんで。飲んで、食べて」

 しばらくすると魚塚氏と勇吉さんが連れ立って現れた。二人はドッカリあぐら坐を掻いて互いに献酌していたが、彼らに限らず、室内はどこも似たり寄ったりだった。遅れて来る人を待つ間の繋ぎらしい。

 二十分あまりで座敷がいっぱいになった。男ばかり三十人近く集まったろうか。自分が最年少だ。紫煙が鼻先を掠めては拡散する中で、チビチビ清酒を舐めていると、

「そろそろ始めようかね」

 慶舟じいさんが切り出した。一同は口を噤み、手を止めて、居住まいを正した。

「いや、構わんよ。いつものことだし、楽にして」

 慶舟じいさんは紙コップの残りを一息に空けると、

「大事な漁の日が迫ってきた。去年は包丁役がいなくて中止になったが、今年はその、秀造さんの身内がおられるから、めでたく宴を催せる」

 一斉に視線が集中した。秀真は身を竦めて小さく頭を下げた。

「一頭でもいい。力を合わせておかへ揚げよう。なぁ」

「はい」

 いくつもの声が低く重なり合った。と、思う間に、何人かが立ち上がり、改めて各人のコップを酒で満たしていった。

「では、漁の成功を願って、乾杯」

「乾杯」

「今回は、じゃの。ま、用意は大概出来とって、後は気持ちの準備だけだから」

「天気はどうでしょう」

 響彦が訊いた。毎度の儀礼か、確信を持ちながら、わざと念を押す口調だった。慶舟じいさんはにこやかに頷いて、

「心配なかろうよ。夜の七時……うん、八時頃がいいかなぁ」

 皆、了解したというように頷き合っている。一人が立ち上がって慶舟じいさんに近づき、

「もう一献」

「かたじけない」

 雑談の輪が広がる中、秀真は注ぎ足される一方で中身の溢れ出しそうなコップを持て余し、両手を後ろに突いて姿勢を崩した。部屋中が熟柿臭い。扇風機だけでは足らないと、団扇で胸を扇ぐ音がパタパタ、カサカサと聞こえる。

「もう少しの辛抱だから」

 響彦は涼しい顔で囁き、また別の人物から酌を受けていた。

「ふぅ」

 やがて、誰からともなく手拍子を取り出し、零れる詞に節がついて歌が始まった。明るいが荘厳さを感じさせる旋律に、酔気を帯びた方言が被さる。歌詞は少しも聞き取れないが、予祝の意味があるらしい。チラリと横目で見ると、響彦は皆と一緒に団歌を口ずさんでいた。この人は何故、こんなに一生懸命なのか。ここで暮らしたのは五歳頃までで、後は年に何度か帰って来るだけなのだから、理解できないことや、ついていけないことがたくさんあってもおかしくないはずなのに、果敢に輪の中へ飛び込んで溶け込んでいる。美潮のためだろうか。戻って来られなかった父親の分まで働いて、母を喜ばせたいと思っているのか。

 手拍子が止んだ。十秒ばかり、余韻を惜しむように沈黙が流れた。瞼を閉じたまま顔を仰向けて、天に祈りを届けようとする人もいた。

「みんな、お疲れさん」

 慶舟じいさんの穏やかな声に、緊張をほぐして吐息を漏らす者、軽く拍手する者。どうやら自分の印象以上に厳粛な儀式だったらしい。響彦もホッとした様子で笑みを浮かべていた。

「後は本番を迎えるだけ」

「四日後、ですか」

 立ち上がって座布団を片付けながら、

「そう。満月の晩にね」

 鱗塚から見下ろした夜の海の輝きが閃いた。どうして胸が轟くのか、自分でも判然しなかった。

「しっかり頼むよ」

 何人もが同じセリフを口にしては肩を叩いて去っていく。魚塚氏と勇吉さんが離れたまま会釈して出ていくのが見えた。

「あのねぇ」

 陽気な声に振り向くと、慶舟じいさんが、ほんのり赤くなった鼻の頭を指先で擦りながら、

「あんたは後で、を捌いてくれるだけで、いいんだけども……せっかくだから、船に乗るかい?」

「足手まといになりませんか」

 老翁はニコニコしたまま、

「大丈夫さ。響彦も一緒に行くじゃろ?」

「はい」

「秀造さんもね、いつもみんなと海に出ておったよ」

「わかりました。よろしくお願いします」

「あんたの仕事は先が長いから、気楽に構えて。な?」

 顔を上げると、扇風機が止まっていた。傍らの響彦以外、部屋にはもう誰もいなかった。

「ちょっと独りになりたいんで……」

「黙想?」

「そんな大したもんじゃないけど」

 響彦は探りを入れるように秀真の目をジッと見たが、すぐ逸らして扉を施錠し、ポケットに忍ばせていたマグライトを貸してくれた。彼は軽く片手を振って、スタスタと家路に就いた。

 秀真は単身、を目指した。昨晩の蛍が脳裏をぎったので、静かできれいなものを眺めて気を落ち着けようと思っていた。未だ慣れない場所での一人歩きで、度々迷ったが、上りの道を選んで進んでいった。

 懐中電灯が照らす先に石塔が浮かび上がったので、速度を緩めた。灯りを消して深呼吸すると、気配を察して迎えに現れたように蛍火ほたるびが旋回した。秀真は小さな光の輪舞を追って歩を進めた。波の音。踏み締めた夏草が青く匂う。

 蛍が群れていたのは井戸だった。四角い石造りで、普通、見かけるものより一回りか二回り大きく感じられる。しかし、釣瓶も何もない。使われていないのか。第一、この場所から真水が取れるのだろうかと思って縁に手を突き、ライトを当ててみた。内壁に金属の垂直梯子が取り付けてある。かぐろい水。魚が跳ねた。

 ダイバーがエントリー出来る、海と繋がった池もあるという話は聞いたことがあった。だが、こんな高台にわざわざ手間暇かけて入口を作るだろうか。

 身を引いて草むらに座り込んだ。こんなものを使って、を行き来する者がいるとしたら普通の人間ではない。

「ワーカホリックの野宰相やさいしょうか、この世に未練のある幽霊ぐらいだよなぁ……」

 他に考えられるのは――。秀真は生唾を呑み込んだ。響彦は「迫害を受けて海に逃げた先住民が鱗族になったとの伝説がある」と言っていた。時折ここから半人半魚の生き物が腕の力だけで懸命に上がって来るのかもしれない。地上の生活が懐かしいのか。それとも、報復の意味も兼ねて、たまさか出会った人間を襲い、皮膚を食いちぎって生き血を啜るとでもいうのだろうか……。

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