金波銀波(きんぱぎんぱ)⑥‐ⅲ
十年以上も前に、ここへ来て包丁を握らされると決まっていたかのようだ。同時に、秀造が亡くなってから本葬に至る一年半ものブランクの意味が、わかり始めていた。葬儀が間近に迫るまで実父の死を伏せておいたのは、名目上の両親である秀章と彌沙子の配慮というが、それは、未成年を
エントランスが賑やかになり、秀真はハッと顔を上げた。急いで部屋を出たが、鉢合わせは避けられなかった。やって来たのは浜乃おばさんの息子夫婦と、その子供たちだった。
「あれっ、どうしたんですか、こんなところで」
「ちょっと、見学っていうか……」
彼らは浜乃おばさんの代理で掃除に来たという。秀真はご苦労さまですと会釈して、そそくさとゴム草履を突っかけた。若夫婦はにこやかに、
「もう、じきですね。みんな楽しみにしてますよ」
「僕らもね、そのために帰ってきてるんです」
「はぁ。上手くいくか、わかりませんけど……」
「バイバーイ」
いい加減な返事を残して逃げようとすると、幼い
汗を掻きながら貝塚家へ戻ると、裏では
「さっきはありがとう」
猫は一声、どういたしましてと言うように短く鳴いて、ベッドの上で香箱を作った。秀真は一頻り
「……やっぱりそうか。きっと腕のいい職人さんがいるんだね。これをよそに紹介出来ないのはもったいないなぁ。な?」
蕃次郎を顧みたが、返事はなかった。とうに夢心地らしく、目を閉じて舟を漕いでいる。秀真も寝が足りないので傍に横たわった。浜乃おばさんの幼い孫たちの、
(あの子たちも、食べるのかな……)
何が善で何が悪なのか。母――美潮が来訪者に下す裁定の基準はどこにあるのか。眠りの中にも答えは見つからなかった。
「……しまった」
飛び起きて時計を見た。時刻は夜の七時。ヤモリが鳴いている。
「おまえも寝過ぎだろ」
手探りで猫の腹を擽り、灯りもつけずに慌てて梯子を降りると、煮炊きの音が聞こえてきた。台所にはワンピースにエプロンを着けた美潮の後ろ姿があった。
「あら。お目覚め?」
振り返って目を細める。幾分やつれた感はあるが、やはり美しく眩しい笑顔だった。
「起きて、いいんですか?」
「ええ。ごめんなさいね、お世話かけちゃって。もう大丈夫だから」
自分が事実を知ったことは、響彦から伝わっているだろう。こちらからそれらしい挨拶をするべきか、あるいは彼女が切り出すまで黙っていた方がいいのか考えていると、眠りから覚めた蕃次郎が現れて沈黙を破った。食事の催促らしい。
「あなたもよくおよってでしたのね。さあ、出来ましたよ」
湯気の立つ椀を盆に載せて十畳の和室へ向かう。秀真は後に続きながら猫に声をかけた。
「太平楽ってのは、おまえみたいのを言うんだな」
「ニァウ」
老姉妹を上座に、五人と一匹の夕食。祖母と大叔母、母に異父兄。まだ血縁という実感が湧かない一座を改めて眺め回す。
「秀真さん、箸が進まないみたいね。私の料理、やっぱりダメかしら」
「いえ、違います。とんでもない」
即答すると、隣の響彦は何食わぬ顔で、
「疲れが出たんでしょう」
「暑さのせいもあろうねぇ。ちゃんと休んで、体調を整えてもらわんと」
「そうそう。お祭は、もうすぐだから」
琴女と琴江が畳みかける間に、美潮は軽く咳払いして席を立ち、小さく崩した蟹の
「……でね、後でご同道願えますか」
「はい?」
響彦を顧みたが、彼は椀から顔も上げずに、
「公民館で打ち合わせがあるんです。漁の」
琴女と美潮は目を逸らしたが、琴江が取りなすように、
「
「しかと承りました」
冗談交じりの受け答えのお陰で場は和んだが、気が重かった。部屋へ戻って汗染みた服を脱ぎ、着替えていると、下から遠慮がちな美潮の声がした。
「……上がっても、いいかしら」
「どうぞ」
クタクタになったTシャツを丸めて振り返ったが、彼女は梯子を登るのに難渋しているらしい。覗き込むと、両手に花を活けた水盤を抱えていた。秀真は重い荷物を受け取った。
「いつものところに置いてくださる?」
階段箪笥の、香炉の上の段に据えた。彼女はようやく床を踏み締めて、
「さっき、途中で電話があって、そのままにしてたから」
「祖父……いえ、父も喜んでます。いつもきれいにしてもらって」
彼女は目を伏せ、思い煩っている風だったが、
「……響彦から聞いたでしょう。あなたには難題を押しつけたみたいで、悪いと思ってるの。でも、一度だけ我慢して、引き受けてもらえないかしら。今回限りで、帰ってしまっても構わないから」
お母さん任せておいて――と、胸を叩けば、彼女は満足するだろうか。だが、まだ自信を持って応えられない。巫女のような、魔女のような役を担いながら、純真な童女の瞳を持つ彼女と、どう向き合えばいいのか。それでいて会合への出席を断れないのは、島の秘密を覗いてやりたいという好奇心のせいだった。
「父が島の皆さんに受けた恩を代わりに返す方法は、多分、それしかないんでしょうね」
「……」
「行ってきます」
我ながら、今の時点で一番マシな返答ができたと思った。彼女は次の言葉を探しているらしかったが、待たずに四畳半へ下りた。
一座の中心人物が琴江刀自の目下の恋人、天気読みの名人こと慶舟じいさんだった。慶舟さんは小柄で細身だが、タンクトップからむき出しになった浅黒い腕は筋肉隆々として逞しい。髪はフサフサのまま真っ白になっていて、クシャクシャした人懐こい笑顔が好もしかった。
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