金波銀波(きんぱぎんぱ)⑥‐ⅱ
「……で?」
秀真は恐る恐る先を促した。美波は缶に口をつけ、唇を湿らせて、
「まだ、息はあったんだって。わざわざ殺してホルマリン漬けにするのも
美波はしばらく黙って二の句を探している風だったが、
「封鎖が解かれてじきに、若い女が一人でやって来たんですって」
「母が、面接っていうか適性検査っていうか、その人の判定を……」
「ええ。残念ながら、不合格だったそうよ」
「まさか、だからって……殺したのか?」
秀真の脳裏に、無表情の美潮が行きずりの旅行者を崖から突き落とすという、あるまじき映像が流れた。だが、
「いいえ、死んだの。運が悪かっただけ。でも、あたしにとってはこの上もない僥倖だった」
響彦が口にした
「そう。頭はグチャグチャでも、腰から下は掠り傷だけだったから、蝦塚先生が繋ぎ合わせてくれて……」
可憐なキメラは淡々と語る。
「海から上がったからか、輸血されたせいなのか、鱗族だった頃の記憶は失ってしまった。長い尾っぽで舵を取って泳いでいたような覚えは、うっすらとあるんだけど、どんな風に暮らしてたか――とか、まるっきり思い出せない。今じゃ水に入るのも怖いぐらいだから、その方が幸せなんだろうけど」
「名前も?」
彼女は小さく頷き、
「美波っていうのは、魚塚のおじさんが付けてくれたの。三人、子供がいたんですって。男の子が二人と、大分離れて女の子の末っ子が。小さいうちに亡くなってしまったっていう彼女の名を、あたしにくれたのよ。息子さんたちが独立して、全然島に寄りつかなくなっちゃって、寂しいから、うちにいてくれって」
「……周りの反応は、どうだった?」
「魚塚、蝦塚、両夫妻が庇護者になってくれたお陰でしょうね。内心はどうか知らないけど、表向きはみんな、美波ちゃん美波ちゃんって、かわいがってくれて。だから、あたしも順応しようと努力してきたわ」
「その、鱗は――」
そう切り出した途端、彼女は悲しげに睫毛を伏せた。が、キッパリと
「何がいけないのか、蝦塚先生もいろいろ試してくれてるけど、治らないの。これがあるせいで、完全に人間になったわけじゃないって思い知らされるみたいで……」
まばたきと共に涙がポロポロ零れた。
「余計なこと言って、悪かった」
「ううん」
今度は自ら手を伸ばして触れてみた。鱗の輝きは、青い海に金銀の波が立つ様に似て、崖の上から眺めた泡の鎖を思い出させた。美波は軽く閉じた瞼を
「痛いっ」
「ご、ごめん」
美波は目尻に涙の粒を溜め、恨めしげに秀真を見上げた。奪った破片を掌中に持て余しながら、もう一度謝ると、彼女は口を尖らせて、
「蝦塚先生に怒られちゃう」
ポケットからハンカチを出し、ベルトかネックレスか、一粒だけ宝石を失ったパヴェの中の空白にも似た、小さな隙間に滲む血を押さえた。
「ごめん。つい、きれいだったから……」
言い訳しながら、切り離された一枚をとっくり眺めると、なんとなく見覚えがあるような直感が確信に変わった。貝塚家にある箪笥の螺鈿細工は、夜光貝ではなく人魚の鱗で出来ているのだ。だとすれば、その名を冠された鱗塚に肝心の鱗は埋まっておらず、細工師の手によって装飾品として生まれ変わっているのだろう。そして、もう一つ、何かを思い出しかけている。自分は昔、これとよく似たものを持っていた……。
「本当に悪いと思ってる?」
「うん――」
「だったら、あたしの頼みを聞いて」
「何……?」
「今度の漁で上がった鱗族を料理して、食べさせて」
「ええっ?」
「そうすれば、きっとみんなと同じになれるから。鱗なんか生えてこない、完全な人間に」
人と鱗族は互いに捕食し合うという響彦の声が耳の奥に蘇った。共食いの一語が転げ出さないよう、グッと口を結んで
「昔を覚えてない……思い出したくないのは、きっと、とても嫌な目に遭ったからだと思う。だから、徹底してケリをつけたいの。みんなの前で一緒に食べれば、あたしに不信感を持ってる人がいたとしたって、それを境に、ちゃんと仲間って認めてくれるだろうし」
美波は青褪めた唇をワナワナと震わせていた。興奮し過ぎて却って血の気が引いたらしい。秀真はそっと彼女の背中をさすりながら、スカートの裾を整えてやった。及ばずながら力になりたいと思った。だが、それは恐ろしい悪事への荷担にも等しかった。人魚姫の脚は魔女の秘薬で変成した尾ではなく、死んだ人間の女から奪い取ったものなのだ。残された上半身はどうしたのだろう。風葬か、それとも海に投げ込んで鱗族にくれてやったのか。瀕死の人魚を憐れんで救い出す慈悲深い医者たちが、同じ両手で行き倒れの旅行者を切り刻むという矛盾に、頭の芯がズキズキ痛んだ。
気がつくと、美波は床に膝を突き、秀真が零したお茶をハンカチで拭いていた。缶を拾って立ち上がり、
「話はそれだけ。もうすぐ漁の日だから、頑張って」
彼女は沈鬱な微笑を浮かべて背を向けた。取り留めのない置物の群れにポツンと一人残されると、白昼夢でも見たような気がしてきた。涙滴型の鱗片は、マゼンタ、シアン、アイスグリーンと、角度を変える
(――思い出した。あれだ)
子供の頃、旅の土産だと言って秀造がくれた、貝殻の形にシェイプされたキーホルダーがあった。どこへやったか覚えていないが、七色の輝きを放つ不思議な薄片に魅せられながら、多分、何かの弾みに壊してしまって、コッソリ捨てたのだろう。
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