金波銀波(きんぱぎんぱ)⑥‐ⅰ


 〈6〉


 食事の支度はしても、自分自身は食欲がなかった。秀真は手早く後片付けまで済ませて、屋根裏に籠もった。寝不足のあまりベッドに横たわったが、蝉時雨を浴びながら輾転反側するばかりだった。

 チリチリと鈴の音が聞こえ、横向きに寝ていた秀真の肩に柔らかい重みがかかった。

「眠いんだから、そっとしといて」

 軽く払いのけようとした手を、長い尻尾ではたかれた。

「……わかった。何?」

 渋々瞼を開けると、蕃次郎は秀真の目をじっと見つめて「アオン」と一声発した。赤い首輪に片輪かたわな結び。秀真はガバッと跳ね起きて、むずかる猫を宥めながら結びぶみをほどいた。細い折り目を伸ばす間ももどかしく、便箋を広げる。美波からの手紙だった。

「来てたのか?」

 猫は答えないが、彼女はきっと琴女たちへの用事に言寄せて、メッセージを届けに現れたのだ。薄い用箋に紺青のインクでしたためられた端正な文字は、学校で待っていますと告げていた。秀真は蕃次郎を押しのけ、手紙をベッドの引出しにしまうと、急いで着替えて飛び出した。

 小中学校のひんやりした玄関へ駆け込んだときは、ゴム草履が埃まみれになっていた。胸に貼りついたTシャツを引き剥がし、気休めに足の汚れを払ってスリッパに履き替えた。くつぎには他に一足だけ、エスパドリーユが行儀よくかしこまっていた。

「美波ちゃん?」

 小声で呼びかけながら廊下を歩く。捜すまでもなく、ポニーテールがひょいと顔を出した。黒真珠のペンダントが揺れる。素早く駆け寄り、敷居の前で立ち止まって呼吸を整えていると、冷たい金属が頬に触れた。

「ヒャッ」

「ウフフ」

 よく冷えた飲み物の缶だった。

「暑かったでしょ。どうぞ」

 パフスリーブにティアードスカート。丈は膝下までという、しとやかな服装だった。包帯は巻いているのかどうか、わからない。

「昨日はごめんね。何か、変な風になっちゃって」

「いや、別に。あの……お店は?」

「いいの」

 部屋は物置らしく雑然としていた。トロフィーや人形や壁から外された時計や、はたまた跳び箱やバスケットボールの詰まったスチールの籠などが、重ねられた数枚の畳を取り巻いている。二人は広さ一畳の藺草いぐさの壇に、並んで腰掛けた。

「あの後、考えたんだけど。やっぱり、騙し討ちみたいなやり方は卑怯じゃないかって」

「有無を言わさず島に閉じ込めて――ってこと?」

「うん。だからね、協力してくれそうな人がいるから、どうにかして逃げちゃえば?」

 秀真は烏龍茶を喉に流し込んで、

「腹が痛くて死にそうだってヘリを飛ばしてもらうか、親が倒れたとかなんとか言って船を出してもらうか……って、ちょっと考えたけど、どうせトヨさんに見破られちゃうよ」

「でも、大変よ。いろいろ……」

「気にしなくていいよ。もう聞いたから。確かに美波ちゃんの言ったとおり、前もって知らされてたら、怖くて来れなかったろうな」

「平気なの……?」

 彼女は両手で缶を握り締め、大きな目を一層はっきりと見開いた。恐れや不安だけでなく、驚喜の色まで微かに滲んでいるのを、秀真は見逃さなかった。

「まだ半信半疑だし、ちゃんとできるか、自信はないけどね。いや、正直なところ、気味が悪くてさ」

「……なのに、どうして?」

 秀真は唇を結んで答えを確かめた。簡単に言えば、実母を喜ばせたいからだった。秀造を海へ送り出して悲嘆に沈む美潮を慰めるには、息子の自分がきちんと代役を務めるのが最善策のような気がしたのだ。伏せった母が料理を褒めていたと祖母たちから聞いてはいるが、どうしても直接、本人の口から美味しいという一言を聞きたかった。ただ、それを美波に率直に打ち明けるのは気恥ずかしかった。

「貝塚家、ひいては鱗島いろくずじまの一員だって自覚が芽生えた?」

「まあ、そんなとこかな」

「ついでに、あたしのためにも一肌脱ごうって気になってくれたら、嬉しいんだけど」

「どういう意味?」

 畳のへりに掛けた手の甲に、美波が柔らかい掌を重ねてきた。漆黒の瞳が期待とためらいに揺れている。隠し事を打ち明けようとしている顔。彼女はそのまま秀真の手を引いてスカートの中へ導いた。心臓が早鐘を打つ。だが、指先が奇怪な感触に驚いて、ピクリと痙攣した。

「えっ?」

 美波は軽く唇を噛み、眉根に皺を寄せていた。指の腹は彼女に操られるまま、硬い薄片の連なりを逆さに撫で上げ続ける。自然に荒くなる鼻息を抑えながら、くさり帷子かたびらというのはこんな手触りかとぼんやり思っていると、小さな棘のようなものに触れ、秀真は顔をしかめて手を引っ込めた。

「見て」

 勢いよくスカートを捲り上げる。今まで触れていた右の太腿には、彼女の片手ほどの面積に、涙滴型をした玉虫色の鱗が密生していた。驚きとも嫌悪とも区別のつかないまま、秀真は反射的に畳を尻でこすって距離を空けていた。缶が倒れ、飲み残しの烏龍茶がタラタラと床に滴った。

「逃げないで」

「い、移植したの?」

 損傷した組織を補うために、蝦塚夫妻が標本の人魚の皮を剥がして宛がったのではないかと、咄嗟に思い浮かんだが、

「……聞いて」

 美波は光線の加減で妖しく色を変える鱗を、隠すどころか誇示するように膝を曲げた。扇情的なポーズから、秀真は慌てて視線を逸らし、生唾を飲み込んで彼女の目を見つめた。

「あたし、元は人間じゃないのよ。三年前の漁で捕まったの。でも、網に掛かったのは鮫に襲われた後で……下半身は食いちぎられてボロボロで、死にかけてたんだって」

「は……?」

 突拍子もない告白に目を丸くした。

「そりゃ、いきなり言われたって信じられないだろうけど。あなたが島の秘密を知ったなら、あたしだって、もう隠しておきたくないから」

 美波の態度は真剣そのもので、自分を担ごうとしているわけでないのは、すぐわかった。そんな作り話をする意味もない。昨夜の論理に従えば、人魚の群れが島の周囲を巡っているなら、彼女の小麦色の肌に巣くう鱗も本物に違いないのだ。

「縁起悪いし、食べるとこも碌に残ってないから、どうしようかって相談してるところへ蝦塚先生が来て……。夫妻は島民に尊敬されてるでしょ。みんなアッサリ引き下がったって。もちろん、自分で覚えてるわけじゃないのよ。全部、後から聞いた話」

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