金波銀波(きんぱぎんぱ)⑤‐ⅳ

「ポーズさえ取ってくれればよかったのよ。客人まれびとが包丁を握ることに意義があるんだから、誰もが了解してね」

「遠くからやって来る訪問者が島にさちをもたらすっていう、信仰のせいですね?」

「ええ。型どおりに事が運べばいいんだから、実際はほとんど魚塚さんが作ってたんだけど、トヨちゃんのお父さんが亡くなって、みんなガックリ来てたところへ、ヒョイと現れた秀造さんが魚料理の達人だってわかって、そのときの喜びようったらなかったわね」

 老女らの話と照らし合わせれば、およそ二十年前。実家の付近で事故死した男に代わって、秀造が港に降り立ったのだ。島民には、まさしく海の神の思し召しと映っただろう。以来、彼は二つの家を行き来しながら、夏祭の頃には必ず、このみなみ爬龍はりじま――否、鱗島いろくずじまに滞在して、大役を務めてきたのだった。彼が皆に慕われ、愛されていたのは、単に古馴染みだからでも、人柄のためだけでもなく、時季が来れば必ず舞い戻って大切な仕事をこなしていたからだったのだ。

「外来者が定住したら、どうなるんです?」

ではなくなったらって意味ですか?」

「だって、あれは、定期的に外部から訪れては帰っていく存在――なんでしょう?」

 響彦と問いを投げ合っていると、洋子医師がかぶりを振って、

「記録に残ってないね。のお客さんは島を出て二度と戻らなかったか、じきに病死してしまったかの、どちらかで」

 ひょっとすると、何らかの事情で亡くなった場合に限らず、己の所行を悔い、恐ろしさのあまり逃げ出そうとした人を殺して、人魚への貢ぎ物にしていたのではと思ったが、秀真は黙っていた。

「僕の父親が初めてだったそうですよ。島の女と契りながら、完全に移住しないで出たり入ったりしていたなんていうのは」

「私たちにとっては、ありがたかったわ。そのたびに、よそから来てくれるっていうのがね。彼も秀造さんも、そこまで考えちゃいなかったようだけど」

 美波の譫言うわごとが耳の奥に蘇る。何度でも、繰り返し――。

「秘密を守れる、信頼するに足る人が、毎年戻ってくるのは好都合だってわけですね。そして……秀造の後任が来た、と」

「そう。秀造さんの子であり、美潮ちゃんの子でもある、君がね」

「だから、みんな異様に期待の籠もった眼で見るんだな。荷が重いや」

 響彦に後ろから肩を叩かれて振り返った。彼の目は、そろそろ帰るかと言っていた。小さく頷くと、洋子医師が手袋を外しながら、

「あそこは?」

「これから行きますんで、おいとまします」

「暗いから、気をつけてね」

「はい。瑞亮先生によろしく」

 去り際、ホルマリンに漬けられた人魚たちが、自分を挑発するように薄ら笑いを浮かべた気がした。

「帰る前に、もう一つ寄りたい場所があります」

「……交替しましょう」

 今度は秀真が重いハロゲンライトを携え、歩き出してじきに、今朝、美波に連れていかれたへ向かっているのがわかった。だが、道はどこで分岐したのか、どんどん傾斜を増していく。いつしか星屑をまぶした湿った夜気の中へ分け入っていた。息切れがして休憩したくなった頃、響彦が足を止めた。

「きれいでしょう」

 断崖から青墨の海を覗きながら、秀真は無意識に電灯を伏せていた。ラインストーンにも似た泡の連なりで、そこがサンゴ礁の切れ目とわかった。月と星の雫を孕んだおき白波しらなみが震える。水の上をプラチナとゴールドで出来た喜平きへいの鎖が浮きつ沈みつ、うねうねと蛇行するかのようだった。

「凄いですね。周りに照明がないと、こんな風に見えるんだ……」

雲母刷きらずり、とでもいうのかな」

 響彦は輝く波面を浮世絵に例えた。秀真は美潮が寄越した砂子の封筒を思い出していた。

「だけど、いくら暗いからって、星影がこんなにはっきり映ると思いますか?」

 確かに、海中に光線を反射するものがなければ不自然だった。夜光虫なら青白く打ち寄せて海岸線を彩るはずだ。秀真は暗がりの中、じっと相手の目を見て答えを促した。

「あれは鱗族りんぞくの群れ。鱗が光っているんですよ」

 与太を飛ばすために、わざわざ夜半の崖に上りはしないだろう。蝦塚医院の一室でこごった夢をねぶる娘たちが人工の産物でないとすれば、金銀の煌めきは彼の言うとおり人魚が発しているのだろうし、生きた人魚が泳ぎ回っているのなら、美しくも奇怪なホルマリン漬けの生物どもも、紛い物ではないのだ。

「島には、先住民が入植者に迫害されて海へ逃げ込み、鱗族と化したっていう伝説があるんです。彼らが次々に身を投げたとされるのが、ここ――」

 ねっとりした潮風がからみつく。秀真は二、三歩踏み出した響彦のために、電灯を持ち上げて足許あしもとを照らした。彼は卵を縦に割った形の石塔に手を掛け、

「――鱗塚うろこづか。島民が代替わりして、慰霊のために造ったとか」

 秀真はライトの向きを変えた。ツルツルした断面に、草書で幾許いくばくかの文句が彫りつけてある。頭頂部や背面は自然のままゴツゴツしていて、苔が生えているようだった。

「とても読めたもんじゃないけど、鎮魂歌らしい。で、いつの間にか意味合いが変わってきて、塚の名に相応しく、墓場になった」

「人魚の、ですか?」

 響彦は頷いて、

「調理の後で、使わなかった部分――つまり、主に上半身を、人間同様、もがりの苫屋で風葬に処します」

「洗骨……?」

「そう。肉が落ちるのを待って骨を洗い、甕に入れて、カロートに納める」

 響彦は石塔の裏側を爪先で軽く蹴った。そちら側に蓋があって、開けば納骨用の空間が現れるのだろう。

「まさか」

 彼はニッコリ笑って、

「ええ。そこまでが料理人の仕事。この季節はスムーズに白骨化するし、そもそも鱗族は人より腐敗の進行が速いから、大して手間は取らせませんよ」

「ちょっと待って。聞いてるだけで吐きそうなんだけど」

 冷や汗が滲む。秀真は地面に座り込み、頭を抱えた。この場に存在しないはずのなまぐさい臭いが鼻の奥に充満していた。

「やれやれ。困りますね、秀造さんの息子が。意気地なしの僕の親父じゃあるまいし」

 顔を上げるまでの僅かな間に、どこからともなく蛍が集い、響彦の周りを群れ飛んでいた。

「納骨が済んだら、島を出ても構わない。但し、きちんと約束してくれるのが条件。ここで見たこと、やったことを、決して他言しないとね。宣誓できますか?」

 蛍はフワリと舞って、ゆっくり瞬く。近くにはしでもあるのかと思いながら、秀真は幻覚に翻弄される気分を味わっていた。

「ダメなら一生ここに残るか、さもなきゃ洋子先生に注射してもらうんですね。喋りたくなくなるように」

 闇に浮かぶ響彦の長身が、ペリドットの粒を縫いつけた紫黒色しこくしょく薄衣うすぎぬを纏ったかに見える。小さな宝石と波間の光は呼応して明滅し、拡散して視野いっぱいに広がった。張り詰めていた糸がプツリと切れた。

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