金波銀波(きんぱぎんぱ)⑤‐ⅲ

 ガジュマルの気根がそよぐ。夜警を務める二人の巨漢が蓬髪を乱して挨拶したかに見えた。建物は鉤型の右手だけ、窓から明かりが漏れている。チャイムを鳴らすと院長夫人がドアを開けてくれた。藍色のサマーセーターに、細かい花模様を鏤めたギャザースカート。

「いらっしゃい」

「こんばんは。お邪魔します。瑞亮ずいりょう先生は?」

栄晨えいしんさんに呼ばれて、飲みにいってるわ。どうぞ」

 電灯と竹切れを玄関に残し、スリッパに履き替えてついていくと、応接間に通された。またも老姉妹の作品か、テーブルセンターは美波に届けたものに似ていた。エアコンの冷気に乗って、虫けらしい薬草の香りが漂っている。

「座って」

 ソファに腰を下ろし、世間話に付き合っていると、

「トヨちゃん、あんたも大変ねぇ。里帰りったって、仕事持ってきてるんでしょ。休みになってやしないじゃないの」

「張り合いがあって、楽しいですよ」

「それにしても、他の子はちっとも帰ってこないわね」

 彼女が取り上げた子供たち――響彦の仕事仲間を指しているのだろう。秀真は黙っていようかと思ったが、間が持たないので口を開いて、

「あの、今回、初めて、戻ってきました」

 彼女は響彦を顧みて、

「どこまで話したの?」

「後は最大の山を残すのみ。ひいじいさんの遺墨を見せても信じないから、洋子先生に駄目押ししてもらおうと思って」

「あら、まぁ」

 彼女は秀真と響彦を代わる代わる見つめて、

「今のうちに深呼吸でもして、心の準備をしといてよ。トヨちゃん、10分したら例の場所へ来て」

「了解です」

 バタバタと慌ただしく出ていく彼女をポカンと眺める秀真の隣で、響彦はしみじみと、

「……長かったな。ここへ漕ぎ着けるまで」

 チッチッチッチッチッ――この家でも、どこかでヤモリが鳴いている。五分と経ってはいなかったが、響彦はそれがきっかけにでもなったように、すっくと立ち上がった。

 屋敷の角へ向かって廊下を歩く。蝦塚夫妻のプライベートエリアと診療所の間には、診察室にあったのと同じ、キャスター付きのフレームに白い布を張ったパーテーションが立ちはだかっていたが、衝立よりも忍び寄る薬品の匂いが境界を意識させた。響彦は大股に進んでドアをノックした。

「お入り」

 部屋は薄暗かった。仄青い間接照明に浮かび上がった洋子医師は白衣を着込み、薄いゴム手袋を嵌めていた。彼女は強張る秀真の顔を見てニッコリ笑い、

恐怖劇グラン=ギニョルじゃあるまいし、ここで外科手術しようってんじゃないわ。安心おし、取ってやしないから」

 真横に立つ響彦が小声で、

「あの人独特の作法。この話をするときの演出で。ケースに手垢をつけたくないからだろうけど」

 導かれるまま奥に進むと、幅2メートルはあろうかという横長のアクリル水槽が二つ並んでいた。背面が着色されているのか、あるいはホルマリン溶液のせいなのか、中は淡緑色に濁って見えた。展示台に仕込まれたライトに照らされて輪郭を現しているのは、いずれも掛軸の絵から抜け出したような半人半魚の娘だった。

「猿と鯉の接合体シンセシスを見せるために、わざわざ夜道を歩いたんじゃありませんよ」

「わかってます」

 秀真は静かに答え、まばたきもせず水槽に見入った。人魚たちは釣り糸で固定されているのか、液体の中で一定のポーズを取っている。右の娘は身体を水平に横たえ、仰向けになっていた。標本というより、丸ごと煮こごりに封じ込められた具材のようだった。黒い髪は肩の辺りで揃えられ、先端が左右に広がっている。あばらが浮いて見えるほどガリガリに痩せ、乳房は小さく尖った堅い果実に似ていた。腰も細い。顔立ちは十六、七の少女を思わせ、もし瞼が開けば、つぶらな瞳が笑みを湛えて見つめ返してきそうだった。一方、いくらか年かさに映る左の娘は、人間でいうと脚を前に投げ出して座った格好で、豊満な姿態を晒していた。尾の先をツンと跳ね上げ、両腕は脇につけて自然に下ろしている。髪は長く、海松みるいろで、頭皮から海藻が生えたかに見えるが、俯いているので相貌ははっきりしない。いずれも魚の形をした下半身を油色の鱗で鈍く光らせていた。

 洋子医師はツカツカと歩み寄って、ゴムに包まれた指を突きつけ、

「右は八年前の獲物。二頭一緒に捕まえたはいいけど、こっちはあんまり貧弱で、美味しくなさそうだっていうから、引き取ったの。左は六年前。病気だったか、陸に揚げたときは真っ青になって硬直して、死んでたわ」

「生け捕りにしなきゃ、料理は出来ないってことですか」

「そうよ。鮮度が肝心だから」

「驚きませんね。腹を括ったと受け取って、いいのかな?」

「……どのみち終わるまで帰れないなら、やるしかない。秀造仕込みの腕を見せてみろっていうんでしょう?」

「まあ、頼もしい」

 洋子医師は小躍りせんばかりに、甲高い声で喜びを露わにした。響彦も心底、安堵した様子だった。だが、秀真は裏側に回って人魚たちを眺めながら、唇を噛んでいた。場の勢いで引き受けたも同然になってしまったが、見れば見るほど恐ろしかった。魚には違いない。が、半分は人の形をしているのだ。秀造は一体どんな気持ちで包丁を握っていたのだろう。

「でも、海神わたつみの使わしめを食材にして、いいんですかね?」

「むしろ、ありがたく頂戴しようってとこでしょう。海の恵みがギッシリ詰まってると解釈して」

 水槽越しに響彦の口の動きが見える。勝手な理屈だと、秀真は思った。

「――食うか、食われるか。人と鱗族りんぞくは補食者であり、被補食者でもある。でも、なるべく無惨な衝突は避けたい。貝やイセエビを捕る人が無闇に襲われるのは困るし、向こうだって乱獲されたら滅びてしまうから」

 洋子医師がペタペタとスリッパの音を立てて歩きながら、

「ずっと昔、約束したのよ。こちらもにえを捧げるから、見返りを寄越せって」

「さして難しくはない。冷やかしで訪れた行儀の悪い観光客が……もし、野宿してハブに噛まれて死んだら、格好の贈り物になりますしね」

「毒が回ってたら、餌にならないでしょう」

 秀真は声の震えを抑え、精一杯の皮肉で応じた。が、洋子医師はフフンと鼻で笑って、

「さあ。クレームがついたなんて、一度も聞かないわね」

「外来者と接触して、快くもてなすか、鱗族の餌になってもらうかを決めるのが、僕らの母――美潮の役目」

「理屈じゃなく直感で。美潮ちゃんの判断には島民が全幅の信頼を置いてるから」

 二人は背後に回り込み、並んで足を止めた。秀真は振り向かず、アクリル板に映る亡霊のような三つの顔に見入りながら、

「秀造じいさん――いや、俺の父親とトヨさんの親父さんは、運がよかったんですかね」

「僕の父については、確かに。手先が不器用で、料理なんぞ一つも出来やしなかったのに、貝塚家の婿と認めてもらえたんだから。とは言っても、母共々、苗字が変わるのは嫌だからって、未入籍の事実婚だったけど」

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