金波銀波(きんぱぎんぱ)⑤‐ⅱ
「琴女さんや美潮さん、何て呼べばいいんだろう。やっぱり、ちゃんと――」
「今までどおりでいいんじゃないかな。そのままで」
「18になったとき、祖父……いえ、父が言ったんです、秀造が。おまえは孫じゃなくて次男だって。じゃあ、ずっと前に亡くなったばあさんが母親なのかって訊いたら、違うって」
祖父と呼び、葬った秀造が本当は父親で、戸籍上の父である秀章は年の離れた異母兄だった。秀造は妻の死後、別の女性と未入籍のまま秀真を儲けたが、その相手こそ美潮だったのだ。秀真は、秀章と結婚を前提に交際していた
「二人が本物の父と娘みたいに仲がよくって、実の息子の秀章が一歩退いて、いつも醒めた表情で様子を見てた。秀造が養育終了宣言したとき、初めて事情を知って、納得したんだけど」
物心両面とも不足はなく、決して不幸せではなかったが、家庭は微妙にギクシャクしていた。妻の希望を尊重しながら、父の身勝手さに振り回されているという想いを拭えない秀章が放つ刺々しさのせいだった。お陰で秀真はずっと、この家は普通ではないらしいと感じながら育った。
「自分とこは友達の家とは違う、ズレてるって、いつも思ってた。別に誰かに負けてるわけでもないのに、最初からマイナスの位置に立たされてるみたいで。覆したいもんだから、いろいろ無理して……」
孤立するのが嫌で方々にいい顔をしながら、実際は心に堅固な防波堤を築いていた。誰とでも仲よくできる風を装いつつ、真に気を許せる相手は一人もいなかった。
「でも、秀章が会社クビになったって聞いたら、何かがプツッと切れて、こっちまで調子狂って……つい、リセットボタンを押しちゃったんです」
恋人との別離も不調に拍車をかけた。
「ブチ撒けたらスッキリした。今まで誰にも言えなかったから」
「……帰りますか。見せたいものがある」
校庭を後にしつつ、
「もしかしたら、ここに通ってたかもしれなかったんだ。秀造はどうして俺を連れて島を出たんだろう」
「やっぱり先々を考えて……ですかね。また、秀造さん自身も僕の父親と同じで、島に居続ける決心がつかなかったんでしょう。もっとも、理由は違ってて。父は実家が気掛かりだったからだけど、秀造さんは、まだあちこちに行ってみたいからって、言ってたそうですよ」
「ホントにしょうがない親父だな」
響彦は微苦笑して、
「母としては身を切られる思いだった――とはいえ、子供の将来を考えたら
「でも、トヨさん……は、ちょくちょく帰ってたのに、俺はここで生まれたことすら知らされてなかった」
「秀章さんの意向が、あったかもしれない」
「ああ、そうか」
貝塚家に戻ると、軒の悪鬼貝に留まっていた白い蝶が、ふわりと飛び立った。トントン、カタリ――。機織りの音に混じってボサノバが聞こえる。出迎えに現れたのは蕃次郎だった。
「ばあさまたちは仕事場だ。お気に入りのBGMが流れてますよ。今のうちに……」
美潮はまだ伏せっているのか、気配もない。蕃次郎を抱えた響彦に導かれ、衝立をよけて老姉妹の部屋に入った。
「これです」
向き直って床の間の掛軸を目にした秀真は、思わず息を呑んだ。刀自らが拝んでいたのは、頭を下に、尾を高く躍らせ、両手で水を掻いて潜行する、一体の人魚の像だった。
「……海の神様?」
「当たらずといえども遠からず。眷属って位置づけでしょう」
「人魚の伝説って、日本でも各地にあるっていいますね。但し、水のきれいなところに限られるって聞いたけど……」
魚類と認識してか、蕃次郎が低く唸って伸ばした前足を、響彦はそっと押さえて、
「目撃したのはジュゴンか、アザラシか、はたまたリュウグウノツカイか。
「ミイラの写真って、ありますよね。人魚姫とは似ても似つかない、怪しい宇宙生物みたいな、不気味なヤツ」
「19世紀に流行ったイミテーションでしょう。猿と鯉の剝製を継ぎ合わせた――」
「この絵は?」
「ずっと昔、僕らの曾祖父が描いたらしい」
痩せた上半身に、滑らかな魚の腰。髪は黒々と長く、水を吸った毛糸のように膨らんでいる。小さな顔に低い鼻、切れ長の眼。ふっくらした
「変にリアルだなぁ。空想じゃなくて、実際に見てきたような感じ」
「素潜りの最中に遭遇したのを、後で写し取ったって話です」
「ハハハ。水死人を見間違えたんじゃないんですか?」
響彦の顔が強張り、
レディの部屋へ勝手に入ったのが知れては大目玉を食うと言って、そそくさと廊下へ出たが、まだ先があるらしく、後は夜にでも……と、例によって含みのある口振りで散歩に誘われた。秀真は疲れていた。次から次へと押し寄せる情報の大波に辟易していた。
それでも、料理は楽しかった。喜んでくれる人がいるのが嬉しかった。美潮はまだ姿を現さないが、琴女によれば朝も昼も少しずつ秀真が作ったものを口にして、美味しいと言ってくれたらしい。今度も彼女の分だけ取り分け、
「ちょっと二人で出かけてきます」
お茶を淹れようという琴江に向かって、響彦が言った。
「もう真っ暗だのに、どこへ?」
「蝦塚医院。洋子先生と約束してるんで」
「ああ、そう。気をつけてね」
何気ない風に応じる刀自は、響彦の目的を察して任せるような顔つきをしていた。
「ほれ、危ないから、持ってきなさい」
玄関へ送りに出てきた琴女が、細長い竹の棒を差し出した。
「僕は照明を担当しますから、何か出てきたら、よろしく」
「何かって、なんですか。ヤダなぁ」
本当にハブでも現れたら身を守る術などない。気休めに過ぎない護身具を手に、響彦の後に従った。彼はずっしりしたハロゲンライトのグリップを握り、前方を照らして歩き出した。ネオンも街灯もなく、月さえ雲に隠れがちな夜の歩道を、龍の尻目指して進む。光は思いがけず強力で、不安を拭ってくれたが、その分、闇の濃さを際立たせた。聞こえるのは足音と虫の声だけだった。
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