金波銀波(きんぱぎんぱ)⑤‐ⅰ


 〈5〉


 残像の反芻を邪魔するように、二匹の黒いアゲハチョウが鱗粉を撒き散らして目の前を飛び回った。舌打ちして追い払っていると、背後から車の音が聞こえた。

「こんなとこで何してるの?」

 運転席の窓を開け、身を乗り出して声をかけてきたのは、昨日、港から、さんご食堂まで送ってくれた男性だった。野球帽を後ろ向きに被り、首にタオルを巻いている。

「貝塚さんちに帰るなら、送ってくよ」

「いいんですか?」

 喜々として助手席に乗り込むと、

「少しは慣れたかな?」

「ええ」

 秀真は気さくで人のよさそうな彼に鎌を掛けてみようと思い立ち、

「もうすぐ、お祭なんですってね」

「聞いた?」

 まばたきの途中で、柔和な瞳が鋭く光った。が、彼はすぐ相好を崩して、

「去年は、お流れになったからねぇ。あんたにはちょっと負担かもしれないけど、よろしく頼むよ」

「ただ、港を封鎖するっていうのは大袈裟ですよね。物資の補給もだけど、急病人が出たら、どうするんですか?」

「大抵は蝦塚先生が何とかしてくれるし、ダメならヘリコプターを寄越してもらうさ。食料や日用品だって、海上家うなかみやが前もって、これでもかってぐらい仕入れるから」

 ウナカミヤというのが、浜乃おばさんたちが営む、よろず屋の屋号らしい。

「期間中は配給制みたいになって、大変だけどな。あのおばちゃんが眉吊り上げて仕切っとるとこ、想像してごらん」

「アハハ」

 笑う秀真を眺めて、ニコニコしていた男性は、少し改まって、

「不便、不自由、大いに結構。病気になったらって言ったが、そうならないように気をつけとくんだ。物質的な不足もね、却って気分を盛り上げるくらいさ。その日が待ち遠しくて、ちょっとドキドキするっていうのが、いいんだなぁ」

「まるで誕生日かクリスマスでも迎えるみたいですね」

「ああ。盆と正月が一遍にっていうアレさ」

 美波の態度と矛盾する、楽しげな口調。

「だけど、あんたも大したもんだ。まあ、秀造さんの孫だもんなぁ。前から話は聞いてた?」

「いや、そうでも……ないですけどね」

 貝塚家が近づいてきた。だが、琴女たちと顔を合わせたくない。美波の話題に、まだ平然と受け答えが出来る気分ではなかった。

「すいませんけど、もうちょっと先まで行ってもらえますか?」

「いいけど、後は港か、海上家ぐらいしかないよ」

 秀真は咄嗟に、廃校という老女たちの言葉を思い出して、

「学校があるって聞いたんで、見てみたいんですけど」

「了解。でも、下手すると掃除を手伝わされるよ。敷地の中に公民館もあって、みんなよく集まってるから」

 彼は笑いながらハンドルを切った。防風林を抜けると、すぐ校門が見えてきた。開放されている。

「ここらでいいかな」

「はい、ありがとうございました」

 男性は頑張ってくれよと手を振って、ステーションワゴンをターンさせた。

「……村立小中学校、か」

 二階までのこぢんまりした造りが、元々子供の数が少なかったことを伝えている。それがいつ頃かゼロになり、役目を終えたわけだが、鉄棒やジャングルジムや滑り台など、校庭の遊具は埃を被っていても、建物はさほど傷んだ気色けしきもなく、島民によって大切に守られているのがわかった。

 特に目当てはなかった。少し休憩できる場所へ行きたいだけだった。が、人がいれば、清掃に参加しながらでも、またいくらか祭典に関する知識を得られるだろうと思っていた。

 エントランスでスリッパに履き替えていると、ノイズ混じりの音楽が流れてきた。誰かがラジオをつけたらしい。もしやと直感したとおり、数少ない机の一つに腰掛けていたのは響彦だった。

「何してるんですか?」

「掃除が済んだから、休憩。どうして、ここへ?」

「ただ、何となく……」

 答えを発する以前に、響彦は秀真の足をじっと見ていた。視線の先へ目を落とすと、乾きかけのパンツの裾にちぎれた青い葉が貼りついていた。秀真は赤面しながら身を屈めて、濡れた草を摘み上げた。

「座ったら」

 秀真は俯いて隣の席に着いたが、思い切って顔を上げ、

「今、車で送ってもらったんです。昨日も運んでくれた人……えーと……」

「勇吉さんかな。魚塚さんの親類ですよ」

「その勇吉さんから、祭の話を聞いて――」

 響彦がラジオのスイッチを切った。彼は机から下り、秀真の傍へ椅子を寄せて座ると、

「話って、どんな?」

「船の行き来を遮断するっていうのと、縁のある外来者に宴会の料理を作らせるしきたりがあって、じいさんが死んだから、俺に代役をやれっていうのと……」

「他には?」

「全員、心待ちにしてるって。でも、そういう勇吉さんと美波ちゃんとじゃ、全然様子が違ってて……釈然としない。詳しくは言えないなんて、彼女は何か怖がってるみたいだった」

 響彦は先を促す眼差しで黙っている。

「祖父の代わりに働かせようっていうなら、最初から言ってくれればよかったのに」

「予め説明しておくべきか、意見が割れたんです。秀造さんは生前、何も話していないと言ってたし、遺言にも記述はなかったから、巻き込みたくないと思っていたかもしれない。だから、葬式のために連れてきてしまったけど、もしこころざしと違っていたら許してくださいというつもりで、祖母たちが必死に祈ってたんですよ」

 最初の晩の、地鳴りのような読経と伽羅の香りが重なって蘇った。

「事前に聞いたら、きっと逃げ出しただろうって、美波ちゃんが言ってた。何故ですか」

「いや、島の外では、とても話せない。第一、その目で見なきゃ信じてもらえないから」

「見たって信用しないかもしれないですよ」

 すると、響彦は小さくかぶりを振って、

「そんなヤツを、わざわざ呼んでもてなしはしない。この人ならって自信があるから、お連れしたんです」

「秀造の、孫だから?」

 彼は目を細めて微笑するだけで、答えない。

「でも、招かれざる客だって、たまにはいますよね。うちのじいさんだって、トヨさんのお父さんにしたって、最初は偶然辿り着いただけでしょう」

「……そう。二人とも母の眼鏡に適ったので、長く逗留した上、故郷との往還を許された」

「美潮さんに特別な力でもあるみたいですね」

「長老の娘だから、皆の信任を得て判断を委ねられたんです。霊能力だのなんのって代物じゃない」

「まさか――」

 秀真は秀造と響彦の父とのを頼りに、人々が有り余る好意をもって自分を迎えてくれた訳を、ようやく理解した。微かに身じろぎしたつもりだったが、思いがけず椅子が引き摺られ、床が軋んだ。

「蝦塚医院で生まれたんですよ。奥さん――洋子ようこ先生に取り上げてもらって。僕が社長と呼んでる男も、空港まで送ってくれた彼も、ね。血が繋がっていようといまいと関係ない。みんな一緒」

 軽やかに笑う、この人はいろえなのだ。

「これは俺にとって初めての里帰りだったんだ……」

 縺れていた糸が解けた。それを老姉妹が巻き取ってはたに掛け、新しいタペストリーを織り出す情景が瞼に浮かんだ。

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