金波銀波(きんぱぎんぱ)④‐ⅲ

 カランと軽い金属性の物音に続いて、マッチの摩擦音。小さな灯りを頼りに、おずおず歩を進めると、無数の水溜まりがピチャピチャと鳴き声を立てた。光源は三つ叉の燭台に立てられた丈のまちまちな蠟燭で、彼女は壁龕を思わせる自然の四角い窪みに腰掛けていた。下から仄かに照らされて、ゆらゆら揺れる脚が艶っぽく光っている。蠟燭の長さが不揃いなのは、来訪者が複数いて、一本だけしか火を点けない者もいれば、今の美波のように三本同時に用いる者もいるからだと、秀真は察した。そして、燃え尽きたのを確認した人間が、次の機会に新品と取り替えるのを繰り返した結果なのだと。

「暗黙裏に公認されてるのか。っていうのが、隠語にでもなってるんじゃないの」

「……かもね」

「二人で散歩して雨宿りしたなんて言ったら、丸わかりだ」

「だからって、誰も冷やかしはしないわ」

 美波は秀真の目を見据えながらチューブトップを腰まで引き下げた。威圧的な赤いビスチェが現れた。後ろへ手を回してフックを外す彼女を、秀真は立ったまま前屈みになって抱き竦めた。大粒のペンダントが、その厚みの分だけ二人を隔て、腕に力を込めると、肋骨に食い込む痛みをもたらした。

「蹴らないでね」

 美波が指差す燭台のほむらを一瞥した秀真は、ふと、響彦もキャンドルに火を点して相手を座らせたのだろうかと思った。すると、彼女の肌から立ち上る悩ましいジャスミンの香に触発されて、彼が選んだ工藝茶の画像が脳裏をよぎった。水中で身悶えする茶葉がほどけて、野薊のあざみに似た宝玉がはちきれんばかりにせり出してくる……。

 湿った壁に手を突き、目を閉じて首をのけぞらせる美波を見下ろす。秀真は巻き貝の中から現れた触手に捕まり、クルクルと螺旋を描いて引きずり込まれ、固く縛められるような感覚に耐えていた。

「まだ、帰りたいと思う……?」

「ちょっと、わからなくなってきた」

 美波はこの暗黒に燭台があるのを知っていた。一人で散策して入り込んだか、男に連れて来られたか。相手は響彦だったのだろうか。

「帰れば。そのうち、また来たくなったら来ればいいんだから。何度でも家へ帰って、ここに戻る。――ね?」

 彼女の言葉は振り子を思い起こさせ、いては波に揺られる貨客船のイメージを喚起した。父の実家に引き取られながら度々たびたび帰省していたという、幼い響彦の様子が瞼に浮かぶ。冬の鉛色の海を見下ろすふなばたで肘をつく、厚いコートにくるまれた少年の姿。生家への帰路とはいえ、乗り継ぎの多い長旅だ。媚茶の瞳で飽きもせず暗い水面みなもに弾ける泡を眺める彼は、果たして一人きりだったか。背後に保護者がついてはいなかったろうか。

「何度でも……」

 消え入るような美波の囁きに耳朶をくすぐられながら、秀真は直感した。幼い頃の響彦の同伴者は、秀造だったに違いない。あちこち放浪していたというのは思い込みで、祖父はいつも美潮に会うために、この島を訪れていたのでは……。

「何を考えてるの?」

「秀造じいさんが島の人に愛されていたのは何故か、って」

 島民にとって祖父は単なる旅行者ではなかった。自分が想像していたより、ずっと長い付き合いがあって、固い絆で結ばれていたのだ。

「あなたもね、秀造さんと同じで、きっとこの島に気に入られたと思うわ」

「……だといいけど」

 美波が身繕いを始めたので、秀真は蠟燭の炎を吹き消した。いつ、誰が施した細工か、彼女はチャラチャラと鎖の音を立て、水に攫われないよう、座っていた深い窪みに燭台を収めて固定した。

 雨は上がっていた。二人が抱き合っていた痕跡も、時が来れば満ち潮が洗い流してくれるだろう。彼女は往きと違って当然のように腕を絡めて寄り添ってきたが、ずれた太腿の包帯を気にして、歩きながら何度も片手で整えていた。

「やっぱり電話とかじゃなく、一旦家に帰って両親に報告した方がいいのかな、じいさんのこと」

「ついでに気持ちの整理とか、女性関係の清算とか」

 言われた瞬間、眩暈に襲われ、目の前が暗くなった。何か大切なことを忘れている気がして来たが、考えがまとまらなかった。

「でも、しばらくは無理よ。船が出ないから」

 美波は足を止め、茶目っ気たっぷりに目尻を下げてクツクツ笑った。

「は?」

「閉じ込められちゃうの。大事なイベントが済むまで」

 頭が真っ白になった。秀真はバタバタと無意味に手足を動かした挙げ句、旧暦のカレンダーに記された符丁と、豊漁祈願の祭という響彦のげんに思い至った。

「あの、魚塚、貝塚、蝦塚?」

「違う、違う。それは春に済んでるし、別に秘密の行事じゃないわ」

「ちょっと待って。どうして、よそ者の俺が残らなきゃいけないんだ?」

「大任を果たしてもらうから」

 口が滑ったらしい。美波は、しまったという表情で唇を引き締めた。

「……説明してくれる?」

「あたしが勝手に喋ったって知れたら、トヨさんたちに怒られる」

「言わないよ」

 彼女はしばらく口籠もっていたが、

「あなたは秀造さんの代役なの。一昨年まではよかったけど、去年は中止になって。今年はちゃんと元通りにって、みんな期待してるのよ」

「――料理か。それで、都合をつけようとして本葬が今頃になったんだ」

「二重葬だから、どうしても一定の時間が必要だって理由もあったけどね」

 響彦が口にした、客人まれびとという単語を思い出す。

「葬儀のために呼び寄せたまま、祭事に参加させようってはらだったのか。慣例で、その役目は外来者に負わせるって決まってるから」

 美波は自分の骨折りに対して前もって与えられた対価なのかもしれない。島外からやって来た部外者を人身御供として扱う、あざとい、醜悪なやり口に吐き気を催した。積極的に誘ってきたくらいだから、嫌々引き受けたわけでもないのだろうが、秀真は彼女が不憫になった。が、

「変な心配しないで。あたしは自分の意志でしか動かないんだから」

 そして、あなたはどうするのか――と、彼女の瞳が訊ねていた。

「ここから出せって喚いて暴れるのもカッコ悪いな。乗りかかった船だ。祭とかが終わったら帰らせてくれるんでしょ?」

「ええ……」

 帰ればいいと言ったにしては、変に自信がなさそうだった。

「宴会の支度って、魚塚さんに手伝ってもらえるんだよね?」

「もちろん」

 秀真は両親がどこまで事情を知っているのか気にしながら、

「ただ、引っかかるのは、なんで用件をはっきり言わないのかってことでさ。トヨさんにしたって、最初から話してくれればよかったのに」

「先にバラしたら、あなたは途中で彼を撒いて、どこかへ隠れちゃったんじゃないかしら」

「どういう意味?」

 彼女は瞼を大きく開き、何かを恐れ、怯える目の色で秀真を見つめた。黒真珠が揺れている。

「ごめんね。あたしの口から、これ以上は言えないわ」

 ナツメヤシの並木に向かって緩い坂を駆け上ろうとする、太腿の包帯が少しずれた。彼女は青褪めた頬を強張らせ、秀真の手を振り切って逃げた。

「美波ちゃん」

 足がゴム草履の上で滑って、前にのめった。諦めて立ち尽くした秀真の網膜に、チラリと覗いた彼女の傷が焼きついた。赤黒く、また、蜥蜴色とでも呼びたいほど奇怪な光沢を帯びた、瘡蓋かさぶたらしきものができていた。

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