金波銀波(きんぱぎんぱ)④‐ⅱ

 背を向けて茶器を洗い始める。秀真は頬杖を突いた。秀造はつくづく果報者だ。しかし、美潮には早く元気になってもらいたかった。彼女自身のためだけでなく、自分が気兼ねせず、別れを告げられるように。

「ああ、そうだ」

 帰りの船について切り出そうと一息置いたところへ、琴女がタオルで手を拭きながら振り返って、

「もう一つ、お願いしてもいいかねぇ」

「何ですか?」

「美波ちゃんに頼まれたものが出来たから、持っていってください。さんご食堂まで」

「わかりました」

 素直に応じながら、他意を感じずにいられなかった。自分を引き留めるかのような、彼女――美波に近づけさせたがっているかのような。

「……」

 すぐ出るには相手にとって早すぎる時刻に思えたが、暇潰しも考えつかないので、昼食を作っておくことにした。食パンの耳を落とし、ハムと野菜を切り、卵を茹で、バターに少量の辛子を混ぜて練る。食材は豊富にあった。自分と響彦を迎えるために、美潮が揃えていたのだろう。

 出来上がったサンドウィッチを、皿の代わりに探し当てた寿司桶に整然と並べ、隅にパセリを飾ってラップをかけた。白いレースのフードカバーで保護して傍らにメモを添え、屋根裏部屋へ戻って着替えた。

 紙袋を提げて外へ出ると、たちまち毛穴が開いた。とても急ぐ気になれない。ゴム草履の底を引き摺ってノロノロ歩く。影が濃い。蝉の歌に包まれて、龍の、海に面した高台を目指した。黒いフレームにサファイアを埋め込んだような蝶が、目の先を飛び回った。

 辿り着いた食堂は定休日の札を下げて静まり返っていた。

「あれ」

「あら」

 二階の窓から美波が身を乗り出して手を振った。ポニーテールが一緒に揺れた。そこで待てという目つき。程なくバタバタと階段を駆け下りる音がして、ドアが開いた。

「おはよう」

 ゴールデンオレンジのチューブトップにペンダントの黒い珠が揺れる。ボトムはグリーンフロスのショートパンツ。惜しげもなく晒した伸びやかな肢体が眩しい。ただ、いつの間にケガをしたのか、右の太腿にピッタリと包帯を巻いていた。小さな銀の留め具が痛々しい。

 秀真はパチパチとまばたきして、

「これ、琴女さんから預かってきた」

「ありがとう。テーブルセンターとかコースターとか、お願いしたの」

 彼女は袋から中身を引き出してチラリと見せると、パッと扉の内側に姿を消し、またすぐに現れた。空になった手を背中で組む。殊更に胸の輪郭が強調され、秀真は目のやり場に困った。

「時間あるなら、散歩でもしない?」

「うん」

 彼女は琴女の使いで自分が訪れるのを承知していたようだった。

「脚は?」

「平気よ。治りが悪いだけ」

 昨日まではスカートなどに隠れて、見えなかったのだ。痛みはないのか、蜂蜜色のトングが陽気なステップを刻んでいる。首筋に漂う茉莉花マツリカの香気。ジャスミンのエッセンシャルオイルには催淫作用があると瑠璃子が言っていたのを思い出し、秀真は顔を赤らめた。

 二人は左手に海を見ながら、椰子の並木に沿ってを下りていった。ナツメヤシだと美波が言った。

「もう島の中を歩いた?」

「少しね。トヨさんの案内で」

「でも、あまり先の方へは行ってないんじゃない?」

「だって、ダメなんでしょ。聖地っていうんだっけ。入っちゃいけないって」

「聞いたの?」

 秀真は頷き、

「美潮さんが、祖父の骨を洗ってくれたって。なのに散骨しろなんて言われちゃ、報われないよね」

「……どうしてる?」

「寝込んでるらしくて、今日はまだ、顔も見てない」

「当分は辛くて寂しくて、堪らないでしょうね」

「でも、祖父は満足してるだろうし、望みどおりにしてやれてよかったな、って」

遥々はるばるやって来た甲斐があった?」

「まあ、ね」

 手の甲が触れるか触れないかぐらいの間隔を保って歩く二人の周りに、うるさいほど蝶が群れ飛んでまつわりついた。

「ジャコウアゲハ。毒を持ってるんですって。赤い斑紋があるでしょう」

「警告色か。凄いね。こんなにたくさん」

「ここで死んだ人の魂なのよ、きっと」

 秀真は小手こてを翳して乱舞を眺め、

「灰になって海に紛れるのもオツだと思ったけど、そっちも悪くないね。ただ、毒入りってのはどうかなぁ」

「そうね」

 歩きながら、美波は一つ一つ、秀真の目に珍しく映る草花や昆虫の名を教えてくれた。祖父もこうして、美潮の声に耳を傾けて散策したのだろうか。

 次第に、海岸線が複雑に入り組み出すのがわかった。

っていうかっていうか」

「蝦塚医院が近い?」

「うん。で、ずっと下っていくとになるんだけど、左折すると向こうはなの」

 美波はその場所を模してか、左手の指を五本ともグッと鉤状に曲げてみせた。

「でも、指は三本。それぞれの突端が、魚塚、貝塚、蝦塚。もう聞いた?」

「島の人の苗字の由来だってね」

 響彦が言っていた、。彼女はそちらへ向かおうとしているらしかった。

「行っていいの?」

 美波は大きな瞳をクルクル動かして、

「聖地っていうのは。苫屋がある風葬の丘。こっちは別に」

「あ、そうか」

「一緒くたになってたんでしょ」

「いろいろあり過ぎるから」

「まあ、覚えきれないよね」

 今の口振りによれば、さんご食堂の看板娘はすいの島っ子ではなく、よそから移ってきたことになる。しかも、さほど昔ではないらしい。魚塚夫妻が彼女の手を必要として呼び寄せたにしろ、若い娘がこの環境を受け入れるには、何か特別な事情がありそうだった。例えば健康上の理由で、空気のきれいな土地で静養する必要があったか、あるいは両親が亡くなり、他に身を寄せる当てがなかったか、彼女が格別この島を気に入ったか。

「今回の件は……どう思ってるの?」

 何故、見合いを承知したのか、跡継ぎを捕まえて魚塚夫妻に恩返しする気でいるのかと想像しながら、訊ねてみた。曲がりくねった道は磯に通じていた。

「秀造さんの遺言には、何て?」

「いや、特に。葬式の話だけだった」

「ふぅん。あたしたち二人で決めろっていうのね」

「会ったばかりで?」

 彼女はプッと噴き出して、

「単なるきっかけじゃない」

「そりゃ、そうだけど」

「だから、このまま島に残れって言ってるんじゃないわ」

 クレーターだらけの月面めいた鈍色にびいろの岩頭を、美波は無造作に蹴って飛び降りた。正確には岩ではなく、サンゴの死骸の集合体だ。秀真が後を追うと、下は満ち潮になれば波の浸入を許す洞窟になっていた。雨粒が落ちてきた。彼女が手招きする。不安定な足許あしもとに気を取られた隙に、どしゃ降りになった。慌てて駆け出す足の裏とゴム草履の間に、生ぬるい水が迸った。

「まいったなぁ」

「スコールだから、じきに止むと思うけど」

 横穴の入り口に立って雲を見上げながら、彼女はショートパンツのポケットを探っていた。出てきたのは、さんご食堂のマッチだった。

「どうするの?」

「照明が必要でしょ」

 平然と奥へ進む彼女の後ろ姿が闇に滲み、包帯だけがボウッと白く浮かび上がった。秀真は汗ばんだ手でシャツの胸を強く握り締めた。不意に湧き起こった欲情に恐れをなしているのは、他でもない自分自身だった。

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