金波銀波(きんぱぎんぱ)④‐ⅰ
〈4〉
冷たく、プヨプヨした感触を頬に受けて、目を覚ました。
「はいはい、起きますよ」
蕃次郎の肉球だった。秀真があくびをしていると、猫は早くしろと言わんばかりに両目を吊り上げて一鳴きし、先に梯子を駆け下りた。
「家来か召使いのつもりかね」
ぼやきながら洗面所へ向かうと、エプロンを着けた刀自らが衝立の後ろから姿を現した。
「おはようございます」
「おはよう。今日は私らが、ごはん作るから」
「美潮さんは?」
琴女が顔の前で手を振って、
「心の風邪さね。二、三日は、どうもならん。そっとしといてやって」
「あ、はい……」
気丈に振る舞ってはいたが、やはり秀造との別れが堪えたか、身体が動かないらしい。
「お風呂を洗うのはトヨちゃんに頼むとしても……いろいろあって」
「手伝います。何でも言いつけてください」
老姉妹は顔を見合わせ、目だけで短い対話を済ますと、ニッコリ笑って、
「よかったら、台所を」
「ええ。取りあえず、簡単な朝メシから」
刀自らは食材や調理器具のあらましを説明すると、歩道の掃除当番だと言って、竹箒を握って出ていった。
「さて――」
老体と半病人を
腕の中で何やら訴え続ける蕃次郎を宥めながら、響彦が入ってきた。扇風機のスイッチを入れて、
「いい香りですね」
秀真は中華鍋を振りながら顧みて、
「昨日の料理、絶品でしたけど、炒飯がなかったのが、ちょっと寂しかったから」
「確かに」
「蕃次郎はどうします?」
「うるさいけど気にしなくていいですよ。今日はインスタントでごめん蒙る。な?」
彼は缶を開けて餌を器に盛った。猫は不満そうに低く唸り、廊下へ出たり戻ったり、ウロウロしていたが、空腹に耐えかねたのか、諦めた様子で腰を据えた。
「ほら、おまけ」
秀真は余った
「はいはい、どういたしまして」
鶏ガラの
「ちょうど出来ましたよ。美潮さんの分は、後でレンジで温めてください」
「あれ、嬉しいねぇ」
「ありがとう」
蕃次郎は気が済んだのか、流しで手を洗う刀自らに挨拶すると、鈴を鳴らして出ていった。
「現金だな」
「猫ですからね」
笑いながら、台所のテーブルを四人で囲む。琴江は二口、三口、れんげを運ぶと感心したように、
「同じ道具と材料で、こんなに味が違うのは、どうしてかね」
「そりゃ、腕でしょう」
響彦が席を立って冷蔵庫を開け、冷茶を注いで銘々に手渡した。琴女は秀真に向かって微笑みながら、
「秀造さんは、いい先生だったんだねぇ」
「そう、です……かね」
照れ臭いが、褒められれば悪い気はしなかった。
「ごちそうさま。片付けは僕がやりましょう」
「トヨちゃんはお風呂掃除をしてくれなくちゃ」
「あんた、見かけによらず不器用だからさ。お皿を割られでもしちゃ、困るから」
響彦は苦笑いしながら席を立ち、
「ごもっとも。失礼して、お任せします」
台所の始末は流れ作業で手早く済んだ。
「コーヒーでも淹れようかね」
琴女が湯を沸かし、秀真がミルで豆を挽く間に、琴江がお茶請けを探した。
「座って、座って」
老女に挟まれての茶飲み話など初めてで、どうしたものかと思ったが、おとなしく聞き役に回ろうと決めて、秀真は行儀よく腰掛け直した。きっと祖父にも度々こんな機会があったのだろう。浜乃おばさんも一緒に。
琴女はテーブルに置いたカップを掌に包んで、
「響彦は美潮の様子を見にいったさ」
「優しいですよね、トヨさんは」
「あの子は父親に似たね」
「いい男に育った。先が楽しみだ」
「トヨさんのお父さんって、どうして亡くなったんですか?」
老姉妹は目を見交わして、何か無言で短く相談した。琴女が
「あれは気立てのいい婿だった。秀造さんと同じで、ある日ひょっこりやって来て美潮といい仲になって居着いたんだ。格別、料理の才能があるんじゃなかったが……」
琴江が後を引き取って、
「ただ、この島も好きだけど自分の家も大切だし、故郷の水はどうしたって忘れられないなんて言って」
「だから、響彦が生まれると、暇を見つけちゃ三人して、あっちへ帰ってたわ。幸い美潮も、ご両親には気に入られたようだけども、逆に嫁入りする形になるのは嫌だって、ぼやくぐらいで」
「だんだん、別居みたいになって」
「そうそう、家業があるからね。時々休みが取れると二、三日戻ってきて響彦と遊んでやっちゃ、また帰るの繰り返しになった。たまたま天気が悪くて船が出ないなんていうと、真っ青になって電話してたわ」
「忙しかったんですね。……で?」
「響彦が四つか五つのときだったかね。交通事故で」
「実家の方で、ですか?」
「ええ。かわいそうに、お店のすぐそば、あの子の見ている前で。どんなにショックだったろう」
琴江は緑茶を淹れて、三つの湯飲みをテーブルに並べると、
「息子さんの忘れ形見を手放したくなかったんだろうね。向こうの家が、響彦を育てさせてくれって言い出して。あちらの言い分も筋は通っていたんだけれども」
「進学だとかね。最初から本土にいれば、苦労はせんでしょう」
蝦塚医院の錆びたブランコが頭の隅で揺れた。そういえば、来訪者である浜乃おばさんの孫以外に子供の姿を見ていない。
「学校は……?」
「港へ行く道を、ちょっと外れたところに、小中学校があるけど、とうの昔に廃校。建物はきれいに保存しているけどね」
「今度はあの子が、年末年始や連休に、こっちへ帰省するって塩梅になって。ただ、父親のときと違って、不思議と海が荒れはしなかったね。いつもきちんと予定どおり」
「島のみんな、トヨちゃんが海の神様に可愛がられてるからだ、なんて言ってね」
秀真は港に降りたときに感じた島民の目色を理解した。
「でも、寂しかったでしょう。彼も、皆さんも」
「仕方ないと思って諦めたよ。あの子のためだけじゃなくてね」
「よその世界と繋がりを持つ人間が、どうしても身内に必要だから」
彼女らは、この島が好きだから離れたくない、しかし、その一心だけでは外部との接触が断たれ、共同体が閉塞してしまうと考えているらしかった。
琴女はしみじみと、
「困るのは、遠いから、不便だからって、こっちへ帰って来なくなることさ。出ていったきりの子も大勢いるよ」
「だから、私らはトヨちゃんが独り立ちしながら、ちょくちょく戻ってきてくれるのを、ありがたく思ってるわけ」
「商売を通して、架け橋になってくれて」
「自慢の孫ですね」
「ホホホホ」
老姉妹が声を揃えて笑っていると、電話のベルが鳴った。
「あれあれ」
琴江が椅子を倒さんばかりの勢いで廊下へ出ていった。琴女はニヤッと笑って、
「慶舟さんじゃろ。お熱いこって」
「若さと美貌の源、ですか」
お世辞を言ったが、老女はしんみりと、
「美潮もなぁ、先立った婿どもは胸に置いといて、気軽に恋でもしてくれればいいけれど……もう、無理かもしれんね」
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