金波銀波(きんぱぎんぱ)③‐ⅱ
「ダイビングって、やったことないけど、こんな感じかしら」
「海に囲まれて暮らしてても、中なんて見ないものねぇ」
女性たちの暢気たらしい呟きに小さく笑うと、響彦が横へやって来て、
「いかがです?」
「あんまり凄くて、言葉にならないけど……無理に例えるなら、巨大な洗濯機か何かがあって、魚の大群がグルグル回ってる中に、後から汚れた靴下みたいにヒョイと放り込まれたって感じですかね」
「なるほど」
「ただ、きれいだからこそ、凶暴で残酷な感じがして、見るものを一々絵の具の色に置き換える癖がある身には、ちょっと
「実際、キャパを超えてるかな」
「うん、頭の中の処理が追いつかないみたいな。それが恐怖を引き起こすのかも」
「いつかまた、こうして覗いてみても、同じ光景は二度とない」
「だから繋ぎ止めたいと思うけど、無理だろうな」
「どうして。やってみればいいのに。今に絵の具も届きますよ」
「いや、何だか不遜っていうか、畏れ多いっていうか」
「謙虚ですね」
「臆病なだけです」
「でも、怖いくせに、ずっと見ていたいんだから不思議ですね。いっそ呑み込まれちゃってもいいや、なんて……」
テーブルサンゴの陰を出入りしていたエンゼルフィッシュが、尖った口にパクリと何かを捕らえた。遺灰は海底に沈むだけでなく、こんな風に魚の体内に取り込まれて遠くへ移動するか、あるいは消化されて新たな血肉となるのかもしれない。
「そういうのも、悪くないですね」
「多分――」
首や腰が疲れてきて、窓の前を離れると、さっきの船員が梯子の上から呼びかけてきた。デッキへ戻ると、船が帰路に就いた。子供たちはまだ興奮していて、どんな魚を見ただの、きれいだったのと言い合っている。
「あれ?」
すっかり忘れていたが、美波は
「意地悪ね」
「悪気はないよ。ばあさま方のリクエストだったから」
彼女はプイと横を向いたが、彼は軽く微苦笑しただけで、スタスタと船首へ移動してしまった。秀真は気の利いたセリフも思いつかず、黙って適当な場所に腰を下ろすしかなかった。
低空飛行する海鳥の群れを眺めていると、彼らを威嚇するように高く海水が跳ね上がった。イルカだろうかと思ったが、姿は見えなかった。
港に戻ると迎えが来ていた。三台の車に分乗して、さんご食堂へ運んでもらった。秀真の同乗者は蝦塚夫妻と美波だった。ステーションワゴンは龍の喉から盆の窪へと突っ切って海岸沿いを走っていった。蝦塚夫妻は運転者と世間話をしていたが、美波は時折小さく愛想笑いを浮かべるだけだった。
貯水タンクの光る魚塚家の前に着くと、一行は支度の出来た二階の座敷へ通されたが、美波は喪服の上にエプロンを着けて夫妻の手伝いを始めた。次々にビールやジュースの栓を抜いて注いで回り、料理を運ぶ。死者の血縁とはいえ、ほんの添え物に過ぎず、喪主としての自覚もないままぎこちなく上座に据えられた秀真は、彼女の
「どんどん召し上がってくださいね。ほら、おまえもお座り」
「こっち来なさい」
美波が足首に絡む蕃次郎を促すと、琴女が座布団の端を叩いた。猫は隣り合った老姉妹の隙間に潜り込んだ。
「皆さん、お疲れさまでした」
響彦が乾杯の音頭を取って、昼餐となった。魚塚夫人と美波が慌ただしくスープの鉢を運んできた。
「せっかくのフカヒレだけど、無理だね、蕃次郎。猫舌だから」
琴江の呟きを受けて笑っていると、早くも次の皿が現れた。魚塚夫人が、
「あんたも座って、ご一緒しなさい」
「はぁい」
美波が廊下でエプロンを外す間に、響彦が腕時計を見て中座した。オフィスへの連絡を思い出したからと席を立った彼は、空いた場所へ代わりに座れと彼女に声をかけたが、別段、先刻の詫びのつもりでもないらしい。軽く頷いた彼女もまた、言われなくてもそうする気だったという表情で、秀真の隣に腰を下ろした。
「失礼します」
「……どうぞ」
「はい」
美波は座るや否や、出来たての料理を新しい取り皿に盛って、秀真に勧めた。
「あ、すいません」
「自慢の一品なの」
アナゴの唐揚げとニガウリの炒め物。ピリリと辛く、後味は爽やかに苦い。美波は箸を動かす手を止めて、秀真のグラスにビールを注ぎ足した。
「合うでしょう」
「ええ」
彼女に異存はないのだろうか。列席者の視線を意識しながら、秀真は思った。極端に若者の少ないこの島で暮らす娘に、彼らは葬儀に
散骨が済めば、用はない。船や飛行機の都合がつけば帰るつもりだった。だが、あの部屋へ戻ったところで、特にすべきこともない。かといって、のんびりしているうちに抜き差しならない関係になっても困る。彼女や魚塚夫妻、そして、貝塚家の人々が望んでいるのは、究極的にはこの店の跡取りなのだろうから。調理の話を口に出すたび、希望に満ちた喜ばしげな目を向けられる理由を、秀真はもう察していた。だが、この年で身を固める決心がつくはずもなかった。一昨日、いくら眺めても見飽きない美しい海だと言ったのは本心からだった。しかし、どんなに素晴らしい環境で、皆が快く迎え入れてくれるとしても、ここは絶海の孤島なのだ。順応しきれるはずもなかった。
美波が新しい瓶の栓を抜く。秀真は泡を噴く液体を虚ろに眺め、ガラス越しに遠い景色を透視した。古びたフィルムがカラカラと音を立てて回る。色褪せて、あちこちに罅の入ったさんご食堂を見つめる、老いた自分の後ろ姿。同じ分だけ
「あ、気をつけて」
「えっ?」
「おこげ、よ」
美波がナプキンを広げて、秀真の胸を覆った。ジャーッと音がして、香ばしい湯気が上がった。
末席を見ると、響彦はいつの間にか美潮の隣で食事を再開していた。彼女は痛みを堪えて無理に笑顔を拵えながら、沈鬱な表情を隠しきれていず、食も進まない様子だった。一方、彼は母親を労わって、温かい言葉をかけているらしかった。
「ご苦労だった」
「お疲れさま。どうもありがとう」
座敷を離れる間際、蝦塚夫妻に声をかけられた。秀真は姿勢を正して、
「こちらこそ、ありがとうございました」
祖父の追善も、これで終わった。散会後は腹ごなしも兼ねて、徒歩で帰宅と相成った。美波は戸口で一昨日同様、じゃあまたねという具合に、ニコニコしながら小さく手を振っていた。
蝦塚夫妻と浜乃伯母さん一家が去っていくと、響彦は蕃次郎を抱き上げて、
「帰ったら着替えて、一寝しますか」
目の錯覚か、去り際、肩越しに一瞥した食堂の壁は傷んで罅割れたようで、色もひどく沈んで見えた。秀真は区切りがついてホッとしたのも束の間、幻の未来が現在を浸蝕したかに思えて憂鬱になった。
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