金波銀波(きんぱぎんぱ)③‐ⅰ


 〈3〉


 故人の葬儀に、元々その人のために誂えた服で出席するというのも妙だった。スタンドカラーの黒いシルクの半袖シャツに暗色の麻のパンツを組み合わせれば、島の標準的な夏の喪の装いになるという。まさしく藤衣ふじごろもだが、秀真は靴下を履こうとして笑ってしまった。足の甲に白いの字が浮いている。焼け残ったゴム草履の鼻緒の跡だった。

 貝塚家の四人と連れ立って出発。琴江刀自の恋人という、天気読みの達人・慶舟けいしゅうじいさんが言い当てたとおり、昨日は好天ながら強風で、船を出すには無理があった。今日は朝から凪いで蒸し暑い。喪服と聞いてブラックフォーマルとばかり思い込んでいた秀真は、軽装に胸を撫で下ろした。真珠のネックレスを下げた女性たちはシルク・オーガンジーのワンピース。秀真は蕃次郎を抱いた響彦と足並みを揃え、風呂敷包みを提げて歩いた。一辺が十五センチ足らずの立方体で、ごく軽い荷物だった。

 港には島民が詰めかけていた。秀真たちが進むに連れ、彼らは徐々に退いて花道を空けた。名も知らぬ人々に会釈しながら、弔いらしからぬ派手な遊覧船が横付けされた埠頭へ向かい、一昨日会った、よろず屋の浜乃おばさん一家と合流した。彼女の夫と、帰省中という息子夫婦に手を引かれた幼子、男女一人ずつ。雑談を交わしていると蝦塚医師が夫人を伴って現れた。

 船員と直前の打ち合わせをする響彦を眺めていると、秀真は後ろからポンと肩を叩かれた。息を弾ませた美波だった。ポニーテールの先端を捩って、頭の上で丸くまとめている。衣裳はフレンチスリーブに長いプリーツスカート、ローヒール。曲げた肘に共切れでできた小さなバッグを提げている。胸許むなもとに揺れる黒真珠のペンダント。片手にブーケを握っているが、下を向いているので何の花かわからない。目を上げると、すぐ傍に、平服の魚塚氏が響彦から預かった蕃次郎を抱え、夫人と並んで立っていた。夫妻は船が出航し次第、さんご食堂に戻って、おときの支度にかかるという。

「皆さん、どうぞ」

 都合十四人が乗船した。チャーターした遊覧船だった。屋根はあっても壁や窓はなく、素通しの両側面に手摺りが付いただけの、操舵室以外はすべてベンチを据えたデッキといった造りで、一行はしばしクルージングを楽しむこととなった。汽笛が響く。手を振る人たちは死者に敬意を払うためか、最後は一様に深々と頭を下げた。秀真たちも立ち上がって礼を返した。

 潮風が清々しい。秀真は左舷の手摺りに肘を突き、心持ち身を乗り出した。

「秀真さん」

 振り向くと、座席に置いた荷物を取り上げた美潮が立っていた。

「着くまで持っていて、いいかしら」

「はい」

 寂しく微笑した美潮は、そこに座って風呂敷包みを膝に載せると、まだ会話のできない赤ん坊を抱いて目だけで語り合う母親の顔になった。痛々しくて直視できなかった。秀真は弾ける航跡を見下ろした。

 船はに当たる港を離れて北西に進んでいた。遠ざかる島を顧みると、恐らくと呼ばれているだろう、爬虫類の鉤爪めいた入り組んだ岬が目に入った。鬱蒼と茂る樹林がワニやトカゲの固い鱗を思わせる。逆に右手前方を眺めると、そちらはらしく、ほとんど裸の、白茶けた、ひょろ長い切り岸が伸びていた。

 十五分か、二十分か。島影が霞む頃、速度が落ち始めた。俯いたまま微動だにしない美潮を心配していると停船した。響彦が一座に声をかける。そのときが来たのだ。

「立てますか?」

「ええ……」

 秀真は美潮を気遣い、寄り添って歩いた。船尾へ移動すると、響彦がそっと荷を奪った。彼女は抵抗しなかった。彼は身を屈め、皺だらけになった風呂敷を琴女にほどかせると、桐の小箱を片手に載せ、反対の手で蓋を開けて秀真に中を見せた。秀真はそっと両手を差し込んで、透明な球体を取り出した。持ち重りのするガラスの容器は直径十センチあまりで、七分目くらいまで白い粉で満たされていた。

「底の丸い台座が蓋になってるんで、外して、撒いてください」

 言われたとおり、手摺り際で掌に力を加えた。台座を取れば、中身は即、落下する。一同が息を詰めて見守る中、ガクリと蓋が緩んだ。美潮が服地に指を食い込ませ、誰にも増して熱く潤んだ視線を注いでいるのが痛いほどわかった。

「美潮さん」

 秀真は容器の蓋が外れないように力加減を保ったまま呼びかけた。彼女は盛んに目をしばたたきながら、コツコツと踏み出した。

「お願いします」

 上下を逆さにして手渡し、台座を預かった。一息に散布するのでなく、彼女の気が済むまで、ゆっくり時間をかけて告別させてやりたいと思った。

 美潮は震える手に球体を載せ、灰白色の粉末を眺めたが、何か二言三言、口の中で呟くと、容器を掴んだ右手を傾け、幾許いくばくかのパウダーをサラサラと左手に移した。別れを惜しむように強く握り締めてから、静かにほどく。微風に擽られ、あるいは指の隙間を摺り抜けて、秀造の遺灰はエメラルドの海へ下っていった。彼女は無言で同じ動作を繰り返すに連れ、ボロボロと涙を零し始め、残り僅かというところで泣き崩れてしまった。

 刀自たちも蝦塚夫妻もオロオロしていたが、響彦は冷静だった。手出しは無用。彼が正しいのは承知している。だが、秀真はこれ以上、苦行を強いるに忍びなかった。肩を叩いて終わらせ、一掴みだけでも持ち帰って、祖父を偲ぶよすがを留めさせてやりたかった。

「美潮さん」

 しかし、彼女は濡れた頬に笑みを浮かべてかぶりを振った。立ち上がろうとするので手を貸すと、指先で涙を拭って軽く鼻を啜り、

「ごめんなさいね。もう平気だから」

「無理しないでください」

「ううん」

 彼女は皆が呆気に取られるほどアッサリとガラスの球を逆さに振って、残りの冷灰を一気に海面へ放った。勢い余ったか、あるいはわざとなのか、器も一呼吸置いて彼女の手を離れ、着水した。球体は丸い口から浅緑の水を飲み、泡を吐いて、自らの重みで沈んでいった。彼女の顔はサッパリしたようでいて、激しく後悔している風にも見えた。新しい涙が溢れていた。

 じっと控えて見守っていた美波が進み出て、黒いレースのハンカチを差し伸べた。美潮は小声で礼を言って目許めもとを押さえたが、フッと力が抜けて後ろへ倒れそうになったのを、透かさず響彦が支えた。彼女はそのまま息子の胸に背を凭れさせ、深い吐息を漏らした。

 美波は持参したブーケを秀真に握らせた。弔花には明る過ぎる、オレンジレッドとレモンイエローのハイビスカスも、この海にはいっそ相応しかった。秀真は腕を振り上げて花束を投げ込んだ。無責任一代男の幸福な結末――。涙腺は相変わらず頑ななままだったが、祖父はきっと血を分けた自分には笑って見送られたがっていると思うことにして向きを変え、心を込めて参列者にお辞儀した。

 余韻が消えるまで、たっぷり一分間。じっと様子を窺っていた船員が、声をかけてきた。

「よろしければ、下へ。足許あしもと、お気をつけください」

 床に嵌め込まれた板を外すと、梯子が現れた。響彦は順に下りるよう一座を促しつつ、キョトンとする秀真に向かって、

「海中見物」

 船底は黄昏にほんのり提灯が点った路地のようだった。通路を挟んで並ぶ二列の座席が、それぞれ窓に面している。幼い兄妹が歓声を上げて真っ先に座り込んだ。秀真も適当な位置に腰掛けた。長方形の窓は低い配置で、大人は背を丸めて前のめりに首を突き出す格好になった。ゆっくりと船が滑り出す。そこかしこで嘆声が漏れたが、吐胸とむねかれた秀真は、ただ息を呑むばかりだった。アクアマリンのキャンバスに極彩色の魚が無数に象嵌され、しかも縦横無尽に泳ぎ回っている。カーマイン、マリーゴールド、オーキッド、ピスタチオ……。色彩の氾濫に翻弄され、眩暈を覚えた。生命の坩堝は傲岸で、暴力的ですらあった。

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