金波銀波(きんぱぎんぱ)②‐ⅳ
「魚塚には挨拶したのか?」
「これから、食事がてら」
秀真はそこで、今朝からの疑問を口にした。
「皆さんの苗字って」
「まだ教えとらんかったか」
「島には三つの姓しかないんです。
島民の三種の苗字は、すべて墓に由来するという。西側の龍の後足に先祖代々の墓所があるように、東の磯には魚塚、蝦塚、貝塚という三つの石塔が建っていて、過去、それぞれ海の恵みに感謝して、食べた後の魚の骨、甲殻類の殻、そして、貝殻を洗って埋めた跡なのだと、響彦が解説した。
「今は豊漁祈願の祭の際に、昔の再現というか、真似事をするだけですが」
「タコやイカはどうしたんじゃという疑問もあるが、な」
医者が真顔で冗句を挟んだ。セリフそのものより面相とのギャップがおかしくて、秀真は噴き出した。響彦もつられたように小さく笑った。
「さて、あまりお邪魔しちゃいけない。お
響彦がグラスを片づけている間に、秀真はトイレを借りた。戻ってくると、響彦はドアを開けたまま、まだ医師と話していた。
「いつもどおりって言えばそれまでだけどさ、感動のご対面っていうのに素っ気なさ過ぎ」
「わしに軽口を叩けというんか」
「まあ、厳めしい方が先生らしくていいか」
外へ出ると、また全身が熱気に包まれた。遊ぶ子供のいない、錆に蝕まれたブランコが物悲しい。
「無愛想だけど、温情家ですよ。秀造さんとも仲がよかった」
「うん。わかりますよ、いい人だって」
龍の背骨を北上する。目的地は――仮に存在するとしたら――肩甲骨の辺りに位置する〈さんご食堂〉だという。
響彦と美潮の会話に出てきた「再会」というフレーズにしろ、今の「対面」にしろ、聞き違いでないなら、自分の訪問は今回が初めてではないというわけだ。過去、祖父に連れられて来ていたのか。そんな記憶はない。覚えていないほど昔の話か。見るもの聞くものが一々珍しい反面、行く先々で既視感に囚われるのが、気のせいでなく、いつか足を踏み入れた経験があるからだとしたら、どうしてはっきり教えてくれないのだろう。
「どうかしました?」
「いいえ……」
おかしいのは何かを隠している彼らより、疑問を持ちながら問いかけを躊躇する自分の方だ。訊いてはいけないような、知るのが怖いような気分になるのは、何故なのか。
響彦は鼻歌を歌っていた。秀造の死や地域の風習について明かしてしまったことで、肩の荷が下りたのかもしれない。
魚塚家は海辺の高台に建つアイボリーのコンクリート造り、三階建て、陸屋根の上では銀色の貯水タンクが陽光を反射していた。一階が〈さんご食堂〉だが、看板はない。店名は入口上部の壁に直接ペンキで黒々と書き込んであった。
「豪勢な看板つけたって、潮風で傷むから。合理的でしょう」
「アンニュイというか、気だるいムードだ」
「味は確かですよ。おや、キノボリトカゲ」
扉の上で垂直に踏ん張っていた爬虫類が、身体の半分もある尾を音もなくくねらせて、どこへともなく退いた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
シーリングファンが物憂い動作で、ぬるい空気を掻き混ぜている。が、予想に反して、ペイズリー柄のバンダナを頭に巻いた五十がらみの店主は快活に二人を迎えてくれた。浅黒い額。太い眉に、つぶらな瞳。丸い鼻。ぽってりした唇の上に濃く固そうな髭を蓄えている。
「秀真くんをお連れしましたよ」
「お待ちしてました。どうぞ、座って」
ラジオから音楽が流れる中、カウンターに沿って進むと、奥は一面ガラス張りで、厚い木で出来た横長のテーブルが据えられていた。正面に海を望む特等席だ。客は他に誰もいない。
秀真は隅のフォトスタンドに目を留めた。祖父と店主の魚塚氏が獲物を掲げて笑っている。
「お二人は釣り仲間だったんですよ」
祖父の死を深く悼む人物が、また一人。当の魚塚氏は奥に向かって、
「おい、
「はぁい」
若い娘の間延びした返事が聞こえた。二人がテーブルの真ん中の椅子を並んで占めると、エプロン姿の女の子が金のミュールをバタバタさせて現れた。年は自分と響彦の間ぐらいだろうかと思っていると、
「いらっしゃいませ。トヨさん、しばらく」
「ご無沙汰」
メニューとグラスを置きながら、
「今日は開店早々ドヤドヤッと来たかと思ったら、後はヒマで」
「痛し痒し、だね。こちら、秀真くん」
「初めまして。魚塚の姪の美波です」
髪はポニーテール、健康的に日焼けした細い腕。はっきりした目鼻立ちに、大きな耳。エプロンの下にベージュのカーゴパンツが覗いているが、上半身には他に何も着けていないかに見え、秀真は一瞬ドキッとした。胸当ての上で光る直径一センチ以上もの黒真珠らしきペンダントは、彼女自身の瞳に似て、まるで第三の目のようだった。
「担々麵と、何か今日のお薦めを」
「少々お待ちください」
美波はポニーテールを揺らして
厨房では威勢よく油が跳ね、カチャカチャと食器の触れ合う音がした。美波は十分足らずで戻ってきた。
「担々麺、二つ。今、料理をお持ちします」
美波は水を注ぎ足し、ニッコリ笑った。秀真は食事に集中するフリをしたが、胸の中がモヤモヤしていた。
食べ終わる頃、美波が小さなドリンクのメニューを差し出した。
「お茶いかが?」
「蕃次郎スペシャルって?」
「猫ジュース。……嘘」
飲み物は彼女の担当らしい。ついでにコーヒーも淹れてくれと、魚塚氏の声がした。
「お待ちどおさま。グアバジュース。バンジロウって、グアバのこと」
グラスに飾られたペパーミントの葉が清涼感を醸している。一方、響彦の前には砂時計を添えて、透き通った
雲が流れるたびに影が差し、また新しい光が注いで、海の表情は刻々と変化する。秀真はストローを咥えたまま、青いスクリーンに絵の具の名前を当て嵌めてみた。ロビンズエッグブルー、フェアリーランド、セラドンティント……。
「飽きませんか?」
「いや、全然。このままずっと座っててもいいぐらい」
「頼もしい。素質あり、かな。定住できそうですね」
魚塚氏と美波の忍び笑い。
「弟子入りして、鍛えてもらおうかな」
入門はオーバーでも、上辺だけのお世辞ではなかった。まだ知らない、祖父に教わりそこねた技術を魚塚氏に仕込んでもらうのも、よかろうと思ったのだ。
「……」
レジの前で奇妙な沈黙が流れた。三人が思わせぶりな視線を投げ交わした。深慮の面持ちで口髭をさする魚塚氏とは対照的に、響彦と美波はクツクツと含み笑いを漏らしていたが、
「明後日、よろしくお願いします」
「うん。式には美波が参列しますから」
外へ出ながら顧みると、美波はカウンターに片肘を突いて、顔の横でヒラヒラと手を振っていた。ドアにはあのキノボリトカゲが、いつの間にか戻って張りついていた。
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