金波銀波(きんぱぎんぱ)②‐ⅲ

――サソリの毒針みたいにピンと跳ねた形をしてますが――南の切り立った崖にもがり苫屋とまやがあって、そこにさかみずで拭き清めて白装束を着せた遺体を安置するんです。神聖な場所だから、通常は立入禁止」

 秀真は絶句した。腕や顔が強張り、ブツブツと粟立った。血の気を失った秀造の肉体が、徐々に腐敗して崩れていく様を想像するだけで恐ろしかった。頼まれても近づきたいとは思わなかった。膝の細かい震えを悟られたくなくて、階段に座り込み、背を屈めた。

「我が家はこぞって動転してたから、蝦塚先生が秀章さんに連絡してくれたんです。いかがいたしましょうかって」

「父が、了解したんですか?」

「電話口でしばらく考え込んで、お任せしますと言ってくれたそうです。風習については、秀造さんから聞いて、ご存じだったようで」

「あの頭の固い親父が……」

 響彦はひたいに落ちかかる髪を掻き上げて、

「島での葬法は昔から二重葬で、定められた周期で苫屋を開けて洗骨するんです。その後、改葬といって、かめに収めた状態で納骨します。母と秀造さんは正式な夫婦じゃなかったけど、誰にも異存はないし、貝塚家の墓に入ってもらおうと」

「死んで一年以上経って呼ばれたのは、その……改葬のタイミングで?」

「うん。それまでは黙っててくれって、秀章さんたちに言われてたから。間を置いて、心理的なダメージを最小限に抑えてあげようって親心かな」

「どうなんだろう」

 秀真は一年半ほど前、当時の両親の様子を思い出そうとした。どこか変わった、不自然な点はなかったろうか。だが、何も思い当たりはしなかった。しかし、腑に落ちなかった部分には合点がいった。二次葬の日取りには融通が利くので、召致の方法は美潮が手紙を送る程度で充分だったのだ。ただ、留守が続いて、さすがに押し詰まってきたので、響彦を迎えに寄越したのだろう。

「ところが、秀造さんを苫屋に横たえて一週間。母が遺言状を取り出しました。あの、ベッドの頭の引出しから。簡単な自筆証書で、葬儀の件だけ。秀真くんを呼んで散骨してもらいたい、と」

「どこに。海に……ですか?」

 響彦は軽く頷き、

「母が、嫌がって。当然いつか自分も同じ場所にと考えてたから、すべての遺灰を南爬龍島の近海に散布せよって文言にはショックを受けてましたね」

「全部?」

「ええ。遺言は、後でお見せします」

 祖父は最初から家族のもとへ戻るつもりはなかったのだ。分骨云々うんぬんを相談するまでもなく、ひとかけらも残さず灰になってしまったとは、いかにも気ままで束縛を嫌う彼らしいが、残された側の感情を無視し過ぎている。

「やる方ないって表情だ」

「お母さん――美潮さんは?」

「母は独りで骨を洗ったんですよ。湧き水を入れたたらいに、お湯を注いで、逆さ水を作って。、風葬の丘と呼ばれる断崖の小屋で、泣きながら。南から吹く風に乗って、遠くまで鬼気迫る慟哭が響いた……というのは大袈裟だけど。帰ったときは憔悴しきって、土気つちけ色でね。死人みたいだった」

「そんな思いまでしたのに、散骨だなんて……」

 秀真は膝に顔を埋めた。

「祖母らが言い含めたんです。本人の希望を叶えてあげるのが一番だ、残された者の務めだろうって。で、遺骨を焼いて、灰にしてもらいました」

「さっき言ってた船の都合って、そのための……?」

「琴江さんの年下のボーイフレンドが――って、立派なじいさんだけど――天気読みの達人で。明日より明後日の方が波も穏やかだろうと言うんで」

「美潮さんも?」

「もちろん」

「辛いだろうな」

「駄目押ししたから、大丈夫。実は先週、彌沙子みさこさんに会って、最後の確認をしたので――」

「ウチの母に、ですか?」

「秀章さんにお目通りを願ったんだけど、体調を崩してらしたそうで、代わりに」

 遺言の忠実な執行を宣言し、最終的な承諾を得たという。秀真は口を尖らせて、

「俺だけ、ずっと蚊帳の外だったのか」

「まあ、怒らないで」

 響彦は、さっき秀真がそうしたように、腕を伸ばして差し招いた。秀真は汗と湿気で重くなった腰を石段から引き剥がして立ち上がり、好意を受け止めたが、すぐに気恥ずかしくなって手を離した。

「いい加減にしないと、熱中症になる。先生のとこで涼ませてもらいましょう」

「病院に押しかけて、いいんですか?」

「ボチボチ昼休みって頃合で」

 凄愴な話を一度に聞かされて些か参っていた。草いきれの中、影は濃く深く地面に刻まれ、両脇を縁取る鮮やかな葉むらと相俟って強烈なコントラストをなしている。立ち昇るのは、島の甘い吐息か。祖父は、この妖しい空気に魅入られ、心を奪われていたのだろうか。

 島唯一の医療機関という蝦塚えびづか医院は鉤型をした白い平屋で、仁王めく一対のガジュマルに守護されていた。垂れ下がった焦茶の気根が長い顎鬚にも、擦り切れた衣のようにも映る。前庭には花壇と、小さな砂場やブランコがあった。エントランスは両翼に一つずつ。鉤の角が境目で、右側は院長夫妻の住居だと説明しながら、響彦は左の扉、診療所の入口へ秀真を導いた。

「先生」

 両開きのガラス戸を押して玄関へ入りながら声をかける。消毒液や様々な薬品が混ざった、病院独特の匂いが鼻を突いた。スリッパに履き替えて待合室へ上がると、スッと汗が引いた。冷房が効いている。

「入れ」

 しわがれた、ぶっきらぼうな返事が聞こえた。響彦は当然のように、ためらいもせず診察室のドアを開けた。医者は回転椅子を軋ませて向きを変え、

「適当に座れ」

 秀真は促されるまま診察台に腰掛けた。四角い顔に胡麻塩頭の蝦塚医師は、祖父と同じく六十代半ばといった年輩で、格子縞のシャツの上に白衣を羽織っていた。黒縁眼鏡の奥で細い目が鋭く光った。薄い唇は真一文字。

「歩いてたら喉が渇いちゃって。ちょっと休ませてください」

「ふん、うちはセルフサービスじゃ」

「存じております」

 響彦は衝立の奥へ入っていった。冷蔵庫を開ける音。盆を捧げて戻ってくると、秀真にグラスを渡し、デスクに置いて医者に勧め、自身も一つ手に取って、患者が座る丸椅子に腰を下ろした。

「奥さんは?」

「あっちで寝とる。今日は暇だから」

「紹介が遅れまして。秀造さんのお孫さんをお連れしました。秀真くんです」

「ばあさまたちから聞いとった。おまえが迎えにいったってな。ご苦労だった」

「その節は、大変お世話になりまして……」

「うん。ああ、いや、その……お気の毒じゃった。心から、お悔やみを申し上げる。ご愁傷さまでした」

 蝦塚医師は座ったまま肘を曲げて手を膝に突き、古びた椅子をガタガタさせて礼をすると、咳払いと共に姿勢を戻した。秀真も軽く頭を下げた。

「いよいよ本葬か。早いもんだ。つい、昨日のような気もするが」

「ええ」

 秀真は二人の短いやり取りと、互いにいたわり合うように交わされる眼差しに接して、一年半のブランクは自分に対する思いやりからというより、むしろ彼らを含む祖父の知友が痛手を癒すために設けられた時間だったのかもしれないと感じた。

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