金波銀波(きんぱぎんぱ)②‐ⅱ

 広い砂浜に出た。蒼天を映して輝く透明な海は、鏡のように静かだった。

「波がない」

「あそこで砕けてるから」

 響彦が沖へ向かって指を伸ばした。泡立つ白い帯が見える。

「あれがリーフの切れ目。そこから先はサンゴがないから、海の色が濃いでしょう。で、ぶつかった波の衝撃を吸収してしまうから、浜は穏やかなんです」

 秀真はゴム草履を脱ぎ、ほてった足を水にくぐらせた。見た目の印象とは裏腹に、太陽の熱を湛えた海は人肌ほどのぬるさでくるぶしを撫でた。

 響彦は岸に打ち上げられた流木を物色していたが、何に使うのか、細く長い枝を一本選んで手に取り、

「行きますか」

 濡れた足の裏にはゴム草履を履く前にサンゴの細片がびっしりくっついてしまう。秀真は赤い鼻緒に指を通し、水の中で足を濯いでざらつきを落とした。履物は歩くうちに乾くだろう。

 防風林越しに、右手に海を覗きながら、をくすぐるように島を南下した。道が坂になり、気がつくと、岬の突端を目指して草むらを切り裂く険しい階段を上っていた。額の汗を手の甲で拭いながら歩くうち、踊り場に出て視界が開けた。続く石段の上、丘のいただきには展望台めかした四阿あずまやが建っていたが、響彦はその場に腰を下ろして手摺りに凭れた。

「通称、

 花束や酒の小瓶が並んでいる。

「……ここ?」

 二匹の蝶が黒ビロードの羽を震わせ、縺れるように宙を舞う。響彦は木片を翳して、頂上との中間地点を示し、

「あの辺で階段を踏み外して、転げ落ちたらしい。波布ハブにでも遭遇したんでしょう。めったにお目にかかるもんじゃないけど、ひょっこり出くわすこともあるから、万一に備えて用意しておくんですけどね、こういう棒切れを、防御のために」

「咬まれたんですか?」

「いや、毒が回るどころか、咬傷なんてどこにもなかったって。慌てて足を滑らせて、後頭部を強打したのがいけなかったんでしょう。そこ、薄く残ってるの、わかります?」

「……ええ」

 血潮は日に晒されて褪せながら、なお梅染うめぞめの滲みを踊り場の真ん中に残していた。だが、現場に臨んでも、秀真はまだ祖父の死を実感できずにいた。時間が経って、血痕が生々しさを失っているせいなのか。

「数日ってレベルじゃないですよね。何週間前なんですか?」

 棒立ちのまま訊ねると、響彦は掌に弄んでいた毒蛇けの枝を無造作に放り出した。目を伏せ、声を殺して、

「去年の冬。今から一年半ばかり前」

「は?」

 騙されていた。頭に血が昇り、冷や汗が滲んだ。

「それを話そうと思って」

 響彦は絡み合う夢虫ゆめむしの舞いを眺めながら、訥々と語った。

「その日、秀造さんは昼飯の後、一人で散歩。珍しく手ぶらで。釣りでも写真を撮るのでもなければ、すぐ帰るだろうと思ったのに、なかなか戻らなくて。蝦塚医院へ行った琴女さんが、薬を受け取りそびれたっていうんで、もらってきてあげよう、ついでに秀造さんの様子を見てこようと、外に出た。何となく見晴らしのいい場所にいそうな気がして――。勘が当たった。秀造さんは、頭を下に、腕を投げ出して仰向けに倒れていた。膝を曲げて、足が石段に掛かってて……」

 秀真の目交まなかいに、無惨な姿がありありと浮かんだ。

「助け起こすと、生ぬるい血糊があちこちにベッタリくっついた。息も脈も怖くて確かめられなかった。ただ夢中で背負って階段を下りた。歩き回って暑かったんだろうね、秀造さんは母の手編みのザックリしたセーターを脱いで、腰に巻いていた。色なんかもう、血に染まって、なんだかわからなくなってた。僕は彼を担いで診療所を目指した。秀造さん、痩せてるから軽かった。でも、温もりが薄れていくに従って、だんだん重たくなっていくみたいで……」

 どれほど不安で恐ろしかったか。心情を想像すると胸が痛んだ。憤りは瞬く間に退いていった。秀真は握り締めた指を、ぎこちなくほどいた。

「蝦塚先生なら、何とかしてくれるかもしれない。夢中で診療所へ向かった。後で行くけど、蝦塚医院は――尾の付け根にあります。普通に歩けば七、八分。でも、足が進まなくて。ずいぶんかかってしまった。着いたときは目が霞んで……出てきた先生の顔が、ぼやけて見えた」

「……で、どうなりました?」

 祖父は死んだ、いや、死んでいたのだ。訊くまでもなかったが……。

「蝦塚先生が検案を。先生も、集まってきた人たちもねぎらってくれた。よけいに辛かった。誰も悪く言ってやしないのに、暗に責められてる感じがして」

「例えば、捜しにくるのが、もっと早ければ――とか?」

 響彦はかぶりを振って、

「判断を誤った、すぐ助けを呼ぶべきだった。車を捕まえて、にあるヘリポートまで飛ばしてもらうのが、最善策だったんじゃないかって」

「だって、そもそも間に合わなかったんでしょう?」

「秀造さんは、みんなにとって大事なお客なんだから、出来る限りの手を打たなきゃいけなかった……」

 彼はガックリとうなだれた。重い自責の念に駆られているのだ。

「母と顔を合わせるのが辛くて、コッソリ入れ違いに帰宅した。鏡を見たら血まみれでね。人一人殺してきたみたいだった」

 一呼吸置いておもてを上げると、自嘲的に微笑して、

「着替えて荷物をまとめて、一番早い船で島を出ました。休暇を切り上げて、会社に戻ったんです」

「――よしましょう。ここはもう、離れた方がいい」

 秀真は彼が不憫になって遮り、手を差し伸べた。

「暑くて、ちょっと気が変になりそうだし」

「……うん。慣れない人は、倒れるかもしれない」

 響彦は秀真の手を握って立ち上がると、黙礼を捧げた。秀真も彼に倣って瞼を閉じ、秀造の残した痕跡に頭を下げた。が、特に悲悼の念が湧いてくるでもなかった。傍で誰かが眺めていたら、響彦の方が故人の肉親に見えたのではなかろうか。まだ、死んでしまった気がしないせいか。それとも、昔から漠然と思い描いていたとおりの幕切れを迎えて、当人が決められた役を演じ終え、ヒョイと舞台を降りたような印象を受けるせいか。

「行きましょう」

 上ったのとは別の石段を下りる。に位置する診療所へ向かうらしい。この背中に血みどろの秀造をおぶっていたのか。その日の情景が前を行く響彦に被さって、瞳に沁みた。祖父の死という重い荷を、彼が代わりに背負ってくれているかと思うと、ありがたくもあり、すまない気もしてきた。

「言い忘れてた」

 響彦が振り返った。雲が流れて影が差した。嫌な予感がした。

「今までの話、ご両親――秀章さんたちには報告済みです。もう一つ、大事なことと一緒に」

 彼は手摺りに寄りかかって身体を寛げた。数段上で立ち止まった秀真を仰いで、

「驚くだろうけど、まあ、聞いてください。島の決まり事と秀造さんの要望との折衷案で……まず、風葬が行われました」

「ええっ」

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