金波銀波(きんぱぎんぱ)②‐ⅰ


 〈2〉


 秀真は夢も見ずに熟睡し、蕃次郎に踏みつけられて目覚めた。梯子を下りて洗面所へ向かう途中、あの刀自たちの部屋の前を通った。扉は閉まっていたが余香があって、耳の中にしわがれた和声が蘇って鳴り響いた。

 昨夜、風呂でも感じたが、濯いでも濯いでもなかなかぬめりが落ちない気がするのは、いつまでも石鹸が残っているからではなく、水道水の手触りが違うせいだった。祖父に会わせていたら意気投合したに違いない、アルバイト先で知り合った南国好きの青年の話を思い出す。サンゴ礁が隆起して出来た石灰岩の島では、水の硬度が高いのだ。

 空は抜けるように青く、早くも日差しがきつい。庭には響彦が言ったとおり木製の台にブーゲンビレアの鉢が並んで、ベビーピンク、ホットピンク、ホリデーピンクと、濃淡も取り取りにグラデーションをなして咲きこぼれている。背景の緑は全体的にトーンが高く、見慣れた草木の色とは違って新鮮に映る。

 突然放り込まれた遠い場所で、視覚や触覚のギャップにとまどっている。だが、無数の違和感は自分を突き放そうとするのでなく、逆にこちらが進んで受容するのを小首を傾げて待っているかのようだったし、秀真も一晩で慣れ始めていた。頭のネジが気温や湿度に合わせて調整されつつあるらしい。身体からだが島の食べ物をすんなり受け入れたことも、親和を円滑にした一因かもしれない。

 蕃次郎に促され、例の柱暦はしらごよみを横目に見ながら元の方向に戻った。花瓶の水を換える美潮の姿に足を止め、

「おはようございます」

「よく眠れました?」

「ええ」

「朝ごはんにしましょう。狭いけど、三人だから、こっちで」

 台所ではテーブルに着いた響彦が扇風機の風を浴びていた。美潮が食事を用意して床に置くと、蕃次郎は小走りに近寄って器に顔を伏せた。秀真は響彦の隣に座り、

「お二方は?」

「いつもは早起きなんですけど、夜更かししたみたいだから、後でいいんです」

 美潮が鍋の汁物を椀に注いで手渡しながら答えると、

「はりきってお勤めだったみたいだね。伽羅の香りがプンプンしてる」

「島の神様に、お客さまの安全をお祈りしていたんですよ。それから、おじいさまのご葬儀に海が荒れませんように――って」

 美潮は葉末はずえを滴る木漏れ日のような優しい笑みを浮かべた。法的には他人といえども、夫婦同然だった秀造が亡くなって、まだ葬式も済んでいないのだ。部屋に籠もって泣き暮らしたいだろうに、しゃんとした姿勢を崩さない。弔意は何よりもまず肉親のものだからと、自分を前に遠慮しているのかもしれない。そう考えると、祖父の死を知らされても涙一つ零さずにいるのが申し訳なく思えてくる。同時に、悲嘆に沈みながら毅然とした態度を保ち続ける彼女が、いじらしく、いとおしくなった。

「あら、私の顔に、何か付いてますか?」

「い、いいえ……」

「冷めないうちに、召し上がって」

「いただきます」

 椀の中で湯気を立てるのはアオサの澄まし汁で、磯の香りが鼻をくすぐった。六寸皿に皮の赤い切り身の塩焼きがあるかと思えば、小鉢には別の魚をコリコリと霜作りにして酢味噌で和えてあった。朝から手が込んでいる。ヒメジャコガイのバター焼きにも物珍しさから箸が進んだ。

「一休みして着替えたら、出かけますか」

「お掃除するから、ゆっくりしてきてもらえると助かるわ」

魚塚うおづかさんや蝦塚えびづか先生にも紹介しないとね」

 秀真は顔を上げて口を挟んだ。

「あの、葬式の段取りは……」

「天気と船の都合があるんで、明後日に」

 響彦は仕事の話をしなければならないが、済んだら声をかけると言って、席を立った。満腹したらしい蕃次郎が美潮に挨拶して、彼の後ろに従った。

「船って……よそで埋葬するんですか?」

 この島には墓地がないのかもしれないと思いついて訊ねたが、

「いいえ」

 美潮の目が悲しげに揺れた。彼女は次々に食器を流しへ移して後片付けを始めた。今の一言二言が引き金になって、秀造の死を受け止め直したとでもいうのだろうか。秀真はごちそうさまでしたと背中に声をかけ、台所を後にした。

 梯子を上って屋根裏へ。ベッドに身を投げる。合点がいかない。第一に、祖父が急死して、美潮は生前の指示どおり秀章ではなく秀真に知らせようとしたところ、電話が繋がらなかったので手紙を出したというが、故人の意思を尊重しようと考えたにせよ、のんびりし過ぎている。第二に、留守にしていて経緯を知るまでに時間差が生じたから、真夏の、殊に南方とあっては当然、辿り着く前に火葬も済んで、務めといえば遺骨を持ち帰るだけだと思っていたが、着いた早々、響彦の伯母なる女性から葬儀という言葉を聞かされた。祖父はこの地に骨を埋める気でいたのか。まさかエンバーミングを施したとは考えられないが、少なくとも冷却された状態を保っているなら、なぜ早く対面させてくれないのだろう。何もかも、自分の知らない島のしきたりのせいなのか。貝塚家の悠長さからすると、秀造はもう小さくなって骨壼に収まっているのだろうが、本人がどういう形を望んでいたかは遺言状で確認するとして、手続きが可能なら分骨し、いくらかなりと美潮の傍に留まらせてやりたかった。あるいは、最初からそのつもりなのだろうか。

 秀真は箪笥を開け、着替えを探した。いたずら好きの祖父に謎をかけられている気がした。とまどう自分を物陰から眺めて、笑っているのかもしれない。

 開襟シャツと、膝頭が隠れる丈の生成きなりのパンツを組み合わせる。サイズはぴったりだった。不思議なもので、衣類はいくら洗っても家族一人一人の肌や髪の香りが微かに残る。秀造がこれを気に入って何度も着ていたのがよくわかった。ここにある服は皆、美潮の一念も手伝って、この先どれだけ自分が袖を通し、洗濯されたとしても、決して祖父の匂いが薄れることはないのだろう。

 形見の十徳ナイフをポケットに押し込むと、四畳半から響彦が声をかけてきた。彼は白い丸首の上に青藍せいらんの紋織りのシャツを引っ掛けていた。

「渋い色柄ですね」

「ウチの作品です。ばあさまたちがはた織りをして、出来た布を加工して」

 響彦が籍を置く会社は、特産物を活かした商品の企画・立案を行っていて、彼は主に祖母らの手になる織物をプロデュースしているという。

「本人たちの鋭気が続く限りはね。生き甲斐みたいだから、やめさせちゃいけないと思って」

「働いてるのが若さの秘訣……かぁ」

「奥に小さな別棟があって、そこが二人の仕事場です」

 二人は素足にゴム草履を突っ掛けて外へ出た。

「少し歩きますよ」

「どこへ?」

「秀造さんが、たおれた場所へ。いろいろ不審に思ってるでしょう。母に代わって、説明します」

 聞き慣れない蝉の声。白砂はくさと見紛う、細かいサンゴの死骸が敷き詰められたまばゆい歩道を、ペタペタ、ザラザラと暢気な足音を立てて歩く。秀真は昨日見た案内板の図を思い浮かべた。港を龍の胸、貝塚家を鳩尾みぞおちの辺りとすると、下腹部、島の中央を目指しているらしい。

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