金波銀波(きんぱぎんぱ)①‐ⅳ

「秀真さんも、お料理が得意なんですってね。おじいさま仕込みで」

「祖父にはとても敵わなかったけど、母には喜ばれてました。帰ってくると食事の支度ができてて助かるって」

 すると、貝塚家の面々はサッと目配せして、何事か微かに頷き合った。秀真は四人の視線の中に、ある種の期待感らしきものを読み取ってとまどった。まさか、ゲストの自分に精進落としの料理を作らせる気でいるとも思えないが……。

「おじいさまから伺ってました。アルバイトをしながら大学と並行して美術学校にも通ってらっしゃるって」

「勉強家だぁ」

「料理にも絵心が肝心だものねぇ」

「いや、実は――」

 秀真は口々に褒めそやす女性陣を遮って、

「やめたんです。全部」

「あら、どうして?」

「父がリストラされまして。母が稼いでいるから経済的な心配はないですけど、気持ちの方が。父は仕事一辺倒だったもんで、メチャクチャ落ち込んじゃって。別々に暮らしてるから、いつも顔を突き合わせてるわけじゃないけど、どんな様子か母から伝わってきて、自分だけ今までどおりっていうのが、気が引けて。それに、人間関係の縺れもあって……くたびれてしまって」

「でも、絵を諦めたんじゃないでしょう?」

 響彦が口を開くと、老姉妹も釣り込まれたように、

「そうそう、学校で教わらなくたって、好きなときに描いたら」

「この島にいれば、きっと題材が見つかるはずよ」

 あやふやに微笑するしかなかった。そっとしておいてほしかった。

「おじいさまは写真がお好きだったから、カメラが残ってますけど、絵の道具は……」

「浜乃に頼んで、取り寄せてもらいなさい、すぐ」

「上等のをね」

「まあまあ。疲れたって言ってるんだから、外野が騒いじゃいけませんよ」

「あい」

「あいあい」

 さしもの老姉妹も響彦には勝てないと見え、素直に返事して蒸し物の鉢に手を伸ばした。彼は不足そうに声を上げる猫を顧みて、

「ちょっと待ちなさい」

 蕃次郎は我慢できないらしく、気忙きぜわしげに鈴を鳴らして近づいてきた。響彦が煮付けの魚を手際よくほぐして器を畳に置いてやると、礼でも言うようにニャアと鳴いて貪り出した。

「また一枚」

 美潮は猫専用の食器が増える一方だと、染付そめつけの角皿に目を落として言ったが、顔は笑っていた。蕃次郎は満足げに一声発して出ていった。秀真も箸を置きながら、

「幸せですね、彼は」

「そうね、家族と同じものを食べて、長生きして」

 貝塚一家は今度もチラチラと目を見交わした。自分が知らない、彼らにとっては当たり前の、何か。祖父にも関わりがあるのだろうか。どう訊ねればいいか考えようとしたが、満腹で頭が働かなかった。

 晩餐が済むと、先ほど休憩した四畳半へ再び招かれた。響彦は細い棒を手に取り、鉤の付いた先端を天井に向け、留め金に掛けて引っ張った。幅の狭い梯子が下りてきた。

足許あしもと、気をつけて」

 響彦が灯りを点けた。ぶら下がっているのはランタン風の照明器具だった。板敷きの床の中央に四角い木蘭色もくらんいろ薄縁うすべりが延べてある。古風な階段箪笥の段には、上から順に遺品のカメラ、ラジオ、そして、青窯変あおようへんの水盤と香炉が鎮座していた。美潮が供花くげと線香の代わりに置いてくれたのだろう。手紙の封を切ったときと同じ、甘い潮風の香りがした。向かい側にみや付きのシングルベッドが据えられ、隅のスタンドには釣り竿が整然と並んでいた。壁には石鯛などの魚拓が数枚。

 響彦は換気孔を兼ねた明かり取りの小さな窓を開けて振り返り、

「箪笥にあれこれ入ってるんで、見てください。注文して届いたきりの服とか。どれも形見になっちゃいましたね」

「ええ……」

 フォトスタンドの中で睦まじく寄り添う祖父と美潮。本物の夫婦のようだ。祖父は乏しくなった茶鼠ちゃねずの髪を短く刈り込んでいた。日焼けした広い額に浅い皺。薄い口髭。本や新聞を読むとき以外は使わない鼈甲の丸いフレームの眼鏡は、好きだったタバコやライター、愛用のオーデコロンや十徳ナイフと共に、引き出しに収まっていた。

「チッチッチッチッチッ……」

 細く甲高い生きものの声が、壁の向こうから聞こえた。

「ヤモリ。害虫を食べてくれる、いいヤツなんで、そこらへ出てきても殺さないで」

 鳴き声に誘われたのか、銀鈴を震わせて、蕃次郎がヒョイと顔を覗かせた。

「おいで」

 手招きしたが、猫は秀真を無視して、古いバスタオルが詰まったランドリーバスケットに飛び乗った。

「そこが気に入ってるみたいで。食事ができたって秀造さんを呼びにいくと、大抵ベッドに座って雑誌か何か読んでいて、それを蕃次郎がじっと見ていましたよ」

「祖父は、この家に……皆さんの生活に、溶け込んでいたんですね。両親が聞いたら、複雑な顔をするだろうな」

 秀真が十八歳になったとき、もう子供ではないから世話を焼かないと宣言して、祖父は家族の前から去った。母は今まで面倒を見てくれて感謝していると言ったが、父――秀造の息子である秀章ひであきは憮然として黙り込むと、唇を噛み、怒りを不完全燃焼させた表情で、指の節が白くなるまで拳を握って背を向けた……。

「特に、父が。嫉妬しそう」

、ね」

 秀真は驚いておもてを上げた。祖父から聞いていたのか、響彦は五十嵐家の内情を知っている風だった。組んでいた腕をほどき、謎めいた微笑を浮かべると、

「ごゆっくり。明日は散歩でもしましょう。蕃次郎、行くよ」

 猫を抱いて下りていく。訊ねる前にかわされてしまった。

「どうもフェアじゃないな」

 独り言を零して寝そべると、美潮の声がした。

「秀真さん、お風呂どうぞ。タオルと着替え、わかるかしら」

 美潮は下で待っているらしい。秀真は跳ね起き、箪笥から衣類を掻き出した。凝った螺鈿の装飾だったが、注視している暇はなかった。

 廊下を伝って、家の裏手に導かれた。トイレと洗面台があり、洗濯機の置かれた脱衣所を経て浴室へ。風呂から上がって戻りがてら、来がけに注意を引かれた月の写真の前で足を止めた。旧暦のカレンダーだった。農作業や漁のためか、あちこちに赤いペンで、丸、三角といった記号や、符丁めいた走り書きがある。

 意味もわからず眺めていると、読経のような二重唱が漂い始めた。老姉妹の部屋からだった。戸は開け放たれているが、入口に障子衝立があって、目隠しになっている。伸び上がって覗くと、刀自らは床の間の前に正座していた。せるほどの香煙に包まれた老女たちは、右手と左手に縞瑪瑙の数珠を握り締めてこうべを垂れていた。そこにあるのは掛軸か。秀真の位置からは窺いようもなかったが、二人は唐紅からくれないの珠を震わせ、方言で一心不乱に祈りを捧げているらしかった。

 食卓での朗らかな笑顔とは打って変わった凄まじい気迫に押され、秀真はそっと後ずさりした。透き見を知られたら恐ろしい制裁を受けそうだった。足音を忍ばせて離れる。呪術的なハーモニーの中、辛うじて聞き取れたのは、夕方、響彦に教わった、イロクズジマという固有名詞だった。

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