金波銀波(きんぱぎんぱ)①‐ⅲ

 笑い声が聞こえたらしい。猫が来たのと同じ側から、青い木綿のワンピースにエプロンを着けた女性が現れた。

「お帰り、響彦」

「ただいま」

「……秀真さんね。遠いところ、ようこそいらっしゃいました。手紙を差し上げた貝塚美潮です」

 秀真は呆気に取られて相手を凝視した。筆跡からイメージしたとおり、瞳の優しい、たおやかで、しかも芯の強そうな女性は、響彦の母というにはあまりに若過ぎた。どう多く見積もっても、精々四十路よそじを迎えたばかりとしか思えない。

「お疲れでしょう。ともかく、お上がりください」

「はい……」

 一歩踏み出そうとして足が縺れた。身体が重い。秀真はその場にうずくまった。素早く支えてくれた響彦の手を借りて立ち上がろうとしたが、駄目だった。口の中が渇ききって声も出ない。瞼の裏側で、グルグル色彩が回転する。パステルブルー、セルリアンブルー、アップルグリーン、ティーグリーン……。やがて、渦に櫛目が入ったと思うとが走り、今日、目にした空や海や植物が、鮮やかな糸で織られて再現された。意識が遠のく。が、耳は二人の会話を聞いていた。

「港で浜乃はまのおばさんに会ったよ」

「相変わらず、でしょ。夕食の用意はすぐ出来るけど、あなた秀真さんが休んでる間に、お風呂入ったら」

「うん。ばあさまたちは?」

「まだよ。二人して魚塚さんとこでコーヒー飲んで、話し込んでるんだわ」

「達者で何より、だな」

 背中が寝台に着いたらしいが、不安定でギシギシ軋んでいる。ほてったひたいに冷たいタオルを載せる、しなやかな指。

「どうなの、久々に再会した感想は」

「……フフフフ」

 美潮の艶めいた笑いを残して、気配が消えた。真新しい畳の匂いに、蚊取り線香の煙が細く忍び寄って混じる。時折、犬の遠吠えが鳥や虫の合唱を掻き乱した。

 眠っていたのかどうか、わからない。が、秀真は胸の重苦しさでハッと我に返った。ずり落ちたタオルを引っ掴むと、二粒の猫目石がキラリと闇に光った。重石おもしは尖った歯を剥き出して嘲笑した。香箱を作った蕃次郎だった。

「こら、よしなさい」

 響彦が灯りを点けながら、優しく叱った。猫はおとなしく聞き分けて、ヒョイと床に下りた。秀真はようやくサマーベッドから半身を起した。特に誰の部屋でもなく、家族が時々気の向くまま休憩する場所らしかった。漆塗りと思しい葡萄えびちゃの箪笥に刻まれた螺鈿細工が、妖光を放っている。

「すいません、お邪魔して早々……」

「気兼ねは要りませんよ。自分の家だと思って、楽にして。食事はあちらで」

 和室へ通されると、床の間には野の花を活けた小さな一輪挿しが飾られていた。矍鑠かくしゃくとして上座に連なった老女は瓜二つ。満面に笑みを浮かべている。砂色の髪を高い位置でクルクルまとめ、深紅の玉簪たまかんざしを差した二人は、八十そこそこにしか見えないが、島で一番の長寿なら、もっとよわいを重ねているのだろう。港で響彦が言ったのは、島民がこの若々しさ、健康さに憧れているということかもしれない。

「祖母の琴女ことめと、その妹の琴江ことえ。双子です。僕にも区別のつかないときがある」

 老姉妹は声を揃えて、

「もう、こんな年だ。どっちがどうでも大して違わん」

「いや、土産が別々だから。挙手を願います。琴女さん」

「あい」

 乱立縞らんたつじまを模した襟のないワンピースは色違いで、向かって左に座った浅縹あさはなだ刀自とじが返事した。

「琴江さん」

「あいあい」

 右の滅紫けしむらさきの刀自が小さく片手を挙げる。おどけた芝居のようだ。孫の帰宅に伴う型どおりのパフォーマンスらしい。蕃次郎があくびをして離れ、隅のクッションに横座りした。次々に料理を運びながら、美潮もクスクス笑っている。

「琴女さんがこれで、琴江さんはこっち」

 秀真は老姉妹の違いを見つけた。琴女刀自は左の目許めもと、琴江刀自には右の口許くちもとに、やや大きめのほくろがあった。二人が眼を細め、口を開けて大笑たいしょうすれば、目印など埋没してしまうだろうが。

「トヨちゃん、いつもありがとうねぇ」

 二人の謝辞がのんびりした和音を奏でた。標準語には違いないけれども、音節が旋律を帯びたようにコロコロ高くなったり低くなったりする。耳慣れないイントネーションだが、短い歌にも似て、悪くない。

「どういたしまして。はい、母上にも」

「あら、私はいいって言ったのに……。悪いわね。ありがとう」

 食卓には新鮮な海の幸が美しく盛りつけられて並んだ。

「さあ、ごはん、ごはん」

 琴女刀自は右利きで、琴江刀自は左利きだった。二人の動きがシンメトリーをなして、箸を運ぶたびに一羽の鳥が羽ばたくようで、笑いを誘った。

 美潮がビールを勧めながら、

「小さいのはともかく、大物になると私の手には負えなくて。本職にお願いして作ってもらったんです」

 赤絵の皿に飾られた、ほんのり桜色を帯びた平作りの刺身が、艶々と光っている。響彦も箸を伸ばして、

「魚はずっと秀造さんが料理してくれてたんだけどね」

「ウチでもそうでした。父だけじゃなく、母も仕事が忙しくて、子供の頃は祖父のメシで育ったようなものだったし」

 琴女が潮汁の椀から口を離して、

「昔から、魚は外の流しで捌くんです。台所が狭いので」

「こっちはマンションだから、風呂場ででした。鯛とか、一番凄かったのは鮭を丸ごと一尾。解体ショーですよ。あんなのどうして手に入ったのかな。腹に包丁入れたら、ピカピカしたオレンジの卵の塊が、ドッと。でも、夜になると母が悲鳴を揚げてましたよ。タイルにへばりついた鱗を見つけて」

 笑い声が和やかに響き合った。が、秀真は車海老の塩焼きを囓りながら首を傾げた。

「あの……祖父はよく、こちらへ伺ってたんですか?」

 琴江は天井を指差し、

「秀造さんは屋根裏の住人だった。この島には民宿もないんだから、どこかの家に泊まるか野宿するかの、どっちかさ」

 琴女が相鎚を打って、

「テントを張ったって、毒蛇はいるし、危ないからねぇ。空いてる部屋へどうぞって、お招きしたんです。娘が」

 美潮は少女のように、はにかみながら頷いたが、座敷の隅で蕃次郎が催促の声を上げたのを幸いとばかり秀真に背を向け、薬味のかかった鰹のたたきを小皿に取って立ち上がった。代わりに響彦が、

「屋根裏部屋は、亡くなった父の私室だったんです。お嫌でなければ……ってね」

 話が呑み込めてきた。祖父は成り行き任せに船を乗り継ぎ、たまたま南爬龍島へ辿り着いたところを、美潮と出会って貝塚家に潜り込み、その後もここを拠点として漫遊を続けたのだ。そして、彼女を最後の恋人と決めて遺言を託した――。

 美潮は元通り、秀真の隣へ戻って、軽く髪を掻き上げると、

「手紙に空手からてでおいでくださいって書きましたのは、そういう次第で。おじいさまの身の回りの品が、そっくり残ってますから」

 彼女は未亡人なのだし、祖父もとうの昔に伴侶と死別して独り身だったから、年は離れていようが不都合はなかったはずだ。相手がこんなにきれいな女性だったというのが身内として誇らしく思えるほどだが、同じ血を受け継ぎながら性格は正反対で堅物の父が聞いたら、腰を抜かすに違いない。だからこそ、祖父は葬儀に血縁をたった一人、自分だけ呼び寄せるように言い残したのだろう。

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