金波銀波(きんぱぎんぱ)①‐ⅱ

 響彦はボーディング・ブリッジを歩きながら冗談めかして笑うと、用事を済ませると言って傍を離れた。秀真はロビーのベンチに腰掛け、搭乗前に買ってもらった包みを開いた。行き交う人は皆、陽気に笑いさざめいている。バカンスだ。サンドウィッチを頬張りつつ、心に呟く。夏休み。但し、自分の場合は出口の見えない長いトンネルのようなものだが――。

 物思いに耽るのも飽きて、立ち上がった。ゴミを捨てて振り返ると、椅子はもう見知らぬ人に占領されていた。売店では、アルバイトの高校生か、色白で黒々した大きな瞳の少年が次々とアイスクリームを盛りつけて客を捌いていた。目が合うと、彼はお一ついかがとでも言うようにニッコリした。愛想のいい笑顔に惹かれて、秀真も列の後ろに着いた。

「お待たせしました、どうぞ」

 売り子の目鼻立ちと所作は、毛並のいい上品な猫を連想させた。彼が巧みにディッシャーを操る様は、ほっそりした猫がシルバーグレーの前足をぐにゃりと曲げて、直接アイスクリームを掬っているかのようで、微笑を誘った。

 小銭を渡すと、

「ありがとうございました。お気をつけて」

「あ、どうも……」

 いつでも、誰にでも手向けられる決まり文句に違いない。だが、彼が自分の長い旅程と一抹の不安を察して心の籠もった言葉をかけてくれたようで、嬉しかった。アイスクリームは柔らかく、すぐ溶け始めて、秀真は少し慌てた。


 響彦の予告どおり、目指す島は遥かに遠かった。乗り継ぎ便に搭乗したまではよかったが、飛行機から解放されるや否や、次は船だと言われて、げんなりした。高速船に乗り込み、最初はソーダ水のように泡立つ水面みなもに見とれていたが、十分も経つと飽きてきた。景色が変わらない。行けども行けども果てしない青海原に溜め息をついた。

 ウトウトしたかと思うと起され、促されるまま、覚束ない歩調で移動しては別の船に乗り換える。夢現ゆめうつつで、何度同じ動きを繰り返しただろう。

「着きましたよ」

 やっと靴の底がコンクリートを踏み締めた。日は傾き、空も海も黄金こがねに照り映えていた。目覚めた途端、いきなり別世界へ放り出されたようで心細くなった。右も左もわからない。

「酔いました?」

「いいえ。でも、まだ波に揺られてるみたいで……」

「後は家まで歩くだけです」

 響彦のおもてにはねぎらいの色が浮かんでいた。遠来の客を無事にエスコートしおおせた彼もまた、ホッと胸を撫で下ろしているのかもしれない。

 小さな待合所の前に案内板があった。大雑把な地図が描かれている。島は細長くうねった形をしていた。

「何て読むんですか?」

みなみ爬龍はりじまといいます。頭を北西、尾を東南に向けて絶海に寝そべるオオトカゲかドラゴンか……ってとこですかね」

 響彦はの下、胸板とでもいうべき位置を指で示して、

「現在地は、ここ。我々は鱗島いろくずじまと自称してますが」

「イロクズ?」

「古語ですね。魚のウロコ。魚をたくさん獲って食べるからでしょう」

 埠頭では船から荷を下ろす作業が続いていた。

「定期便で生活物資を補充してます。自給できないものをね」

 港にはちらほら島民の姿が見えた。一様に、離れたまま響彦を認めてはにこやかに目礼する。彼も都度、丁寧にお辞儀して応えた。誰もが旧知の仲だからと言うが、単なる顔見知りの挨拶とは思えなかった。人々の眼差しには愛重や崇敬の念が籠もって見えた。まるで、外遊から戻った貴人を迎えるかのようだった。

「もし、そうだとしたら、祖母たちのせいですよ。我が家には島の最高齢者が二人もいるんでね。あやかりたいっていうんでしょう。もう一つは……」

 後ろから、カラコロと下駄の音が近づいてきた。立ち止まって振り返る。追いついたのは、恰幅のいい五十代半ばくらいの婦人だった。

「トヨちゃん、お帰り」

「ああ、伯母さん。こちらが秀造さんのお孫さん、秀真くん」

 婦人はぺこりと一礼して、

「本当に、お気の毒さまでございました。ご葬儀には私も並ばせていただきますので」

「あ、はい、よろしくお願いします」

「じゃあ、トヨちゃん、またね。早くおうちへ行って、ご馳走をお上がり」

 婦人はのどかな足音を立てて引き返していった。

「親戚です。よろず屋を営んでます。秀造さんとも、お茶を飲むような仲だったから……泣いてましたね」

 港を離れ、防風林だという常盤ときわいろの並木に沿って歩きながら、

「いい人ですね。風来坊の死を、他人ひとごとじゃないみたいに悲しんでくれるなんて」

「島の者は例外なく秀造さんに好意をいだいてましたよ。慕っていたと言ってもいい。人柄でしょうね」

 確かに、祖父は初対面の相手とでも、すぐに打ち解けてしまえる性格だった。口数は少ないが、人懐ひとなつっこい笑顔で如才ない対応ができ、他人の心にするりと潜り込んでは居場所を占めてしまうのだった。そうやって気の向くまま、あちこち渡り歩いていたかと思えば、いつからか南国に腰を落ち着けていたというのだが……。

「さっきの続き。何かありがたいものでも見るようだったっていう、あれはね、半分は秀真くんに向けられていたんですよ」

「どうして?」

客人まれびとだから。ごく稀に、はるばる海を越えて辿り着いた来訪者が、幸福をもたらしてくれると信じているんです。おまけに秀造さんの身内なので――とだけ、言っておきましょう。今はね」

 含みのある口振りだった。問いただしたい気もしたが、疲れていたので黙っていた。黒地に菫の破片を嵌め込んだ蝶が、ひらひら舞って先導する。

 空気の違いを肌で感じた。手で掴めそうな錯覚を起こすほど濃く、しっとりして、植物のせいか甘い匂いがする。妖しく、何故か懐かしいアトモスフィアが取り巻いて、胸を締めつける。道が白い。

「コーラル敷き。舗装されてないんです。近くの人たちが交替で掃き掃除して、整えてます」

 漠然とした考えを読み取ったのか、響彦は秀真が訊ねる前に答えた。歩道に敷き詰められているのは砂と見えて、実は死んだサンゴの細片だという。

 石垣の内側、民家の庭木の花が際立って目に染みた。あでやかなディープピンクだが、触れた途端にホロホロと零れ落ちてしまいそうな可憐さがある。

「ブーゲンビレア。うちの庭にもありますよ。祖母たちが丹精して」

 生垣に沿って進みながら、

「これは月の橘と書いてゲッキツ。中国では九里香きゅうりこうというそうです。遠くまでよく香る……と。今が花の時季。家はもうすぐ」

 角を曲がると、洗朱あらいしゅがわらいた寄せむねの平屋が見えた。軒端のきばにぶら下がっているのは細い横縞に彩られた貝殻で、上部は巻貝に角が生えた形、下に続く長い水管は魚の骨のようだった。

「あれは?」

「魔除け。毒を持って毒を制すっていうのか、悪鬼貝あっきがいなんて物々しい名前で。分泌液から紫の染料が取れるそうですよ」

 のっそりと猫が一匹、家の裏から尻尾を立てて歩いてきた。

「おや、蕃次郎ばんじろう。元気か?」

 腹が白く、背面を茶と深緑のまだら模様で飾った猫は、響彦の足にまつわって彼を見上げ、ミャアと出迎えの挨拶をした。首の鈴がチリチリと鳴った。

「バンジロウ?」

「草冠に順番の番と、次男坊の次郎。こいつはもう二十歳はたちになるのかな」

「凄い。化け猫だ」

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