金波銀波(きんぱぎんぱ)①‐ⅰ


 〈1〉


 手漉きらしい封筒は金銀の砂子すなごが鏤められた水色のマーブル模様で、美しい遠浅を思わせた。滑らかな毛筆はピンと背筋を伸ばした女性の優しい微笑を脳裏に描き出す。消印は初めて見る地名で、読み方がわからない。差出人の名は貝塚美潮みしお。舞台女優の芸名のようだ。便箋はホライズン・ブルー。香でもめたのか、広げるとマリンノートが鼻をくすぐった。つまり、これは海への招待状なのだ。

 ドアポストを開けた途端、郵便物やチラシが零れ落ちて散乱した。秀真ほつまは踏んでしまった封筒の青さに目を奪われて身を屈め、その一通だけを拾い上げた。カーテンは中途半端に開かれたままで、薄暗い室内に朝日が射し込んでいる。チラチラと舞い踊る埃。エアコンのスイッチを入れたが、なかなか冷房が効いてこない。Tシャツが汗を吸って肌に貼り付いている。首筋が痒い。

 シャワーを浴びて着替える。問題は旅費だった。所持金をあらかた使い果たし、足も気力も萎えていながら無意味に歩き続けたい気分をようやく抑えて戻ったのだ。レターケースに封筒をしまいながら、クレジットカー ドを取り出した。不如意に備えて母が作ってくれた一枚。とうとう出番が来てしまった。

 チャイムが鳴った。インターホンで応じる。

「はい?」

「貝塚と申します」

 ドアスコープの向こうに男が立っていた。秀真はためらいがちに扉を開けた。五つ六つ年上、二十代半ばといったところか。彫りの深い顔を縁取る髪は鴉の濡れ羽色。切れ長の目縁まぶちに宿る瞳はしっとりした媚茶こびちゃで、強い吸引力があった。長身の青年は親しみの籠もった微笑を浮かべて、

「朝早く、すみません。五十嵐さんですね。母の手紙は、読んでいただけましたか」

「ちょうど、今」

「それなら、飛行機の予定がありますから、すぐにでも」

「まだ、荷物の用意も、全然……」

「何も要りませんよ。書いてあったでしょう。手ぶらでどうぞって」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 警戒しつつも時間がないと言われて腹を据えた。行かないわけにはいかない。待っているのは祖父の弔いなのだ。カードと僅かな小銭が入っただけの財布を、鍵と一緒にジーンズのポケットに捻じ込んで、後に従った。 待機していたのはタクシーではなかった。ミラーサングラスで顔を隠した男が、真っ赤なカブリオレの運転席に座っていた。

「これが社用車っていうんだから、笑えるでしょう。彼も仲間」

 ドライバーが頷いた。

「お仕事って?」

「広く浅く。友達が会社を興したんで、手伝ってるんです」

 業種を訊ねたつもりだったが、はぐらかされてしまった。

「忙しいんじゃないですか?」

「ちゃんと休みをもらいましたから。帰省がてら、ね」

「随分、間がいいな。ずっとほっつき歩いてたのに、今朝戻ってくるって、どうしてわかったんです?」

「絶妙のタイミングで。離島行きの飛行機は便数も座席も少ないから、押さえるのに苦労するんですけどね」

 貝塚響彦とよひこは曖昧に笑って、質問に答えなかった。秀真は募る不信感を抑えながら、彼の横顔と物言わぬドライバーの後頭部を代わる代わる見つめた。 車は巧みに渋滞を避けて空港へ向かっていた。夏の日差しが凶悪な牙を剥いて、うなじに噛みつく。

「意外と冷静なんで、ホッとしました。取り乱されたら、どうしようかと」

「……前から、いつか、こんな知らせが来るんじゃないかって考えてたんで」

 祖父の秀造しゅうぞうには放浪癖があった。野山か、磯か、どこか遠くでたおれ、収容された病院から連絡を受けたときは、もう間に合わない。そんな結末をしばしば想像していた。

「やっぱり海だったかって思いましたよ。好きでしたから」

「島の――これからお連れする離島の話は?」

「特に、何も。さっきの手紙にしたって、貝塚さんの名前や住所を見てもピンと来なかったぐらいだし」

「びっくりしますよ、きっと。文字どおりの孤島だから」

 響彦は複雑な笑みを零した。照れ隠しと共に茶目っ気を含んだ、あるいは耳かき一杯ばかりの毒を忍ばせたような笑顔だった。温気うんきの中、ふと、背筋がうそ寒くなった。情報が少な過ぎる。捨鉢な勢いで話に乗ったが、 どこまで連れていかれるのか。早朝とはいえ、事情が事情なのだから、実家に知らせるべきではなかったろうか。

 ターミナルビルが近づいてきた。ジェット機が飛び立っていく。きらめく翼を眺めていると、迷いが吹っ切れた。もう走り出してしまった。両親に伝えるのは、遺骨を受け取ってからでも遅くないだろう。どのみち、祖父の死を確かめるまでは引き返せないのだ。

 恋人を見送ったときは、自分もすぐ飛行機で出かける羽目になるとは予想もしていなかった。瑠璃子るりこは大きな目をクリクリさせて、あっけらかんと別れを告げた。その態度は他人には、しばらく離れているくらい何の障害にもならないと言っているかに見えただろう。だが、秀真は彼女の本心を見抜いていた。留学先で素敵な出会いがあったら、あなたとはこれっきり――。取り繕った優しげな仮面の下で小さく舌を出しているのは、わかっていた。承知で釘を刺しもせず、送り出してしまった……。

 車が停まった。

「ありがとう。社長によろしくね」

 響彦がスーツケースを下ろしてドライバーに声をかけた。相手は口許くちもとだけで小さく笑い、軽く手を挙げて応えた。

「よかった。間に合った。これなら日が暮れる前に着けますよ」

 着席すると、いくらか肩の力が抜けた。シートベルトを締め、俯いて瞼を閉じた。南へ向かって空を飛びながら、浅い眠りの中で瑠璃子の夢を見た。気まぐれで、一時ひとときもじっとしていない彼女を、ずっと追いかけている。疲れて休むと、これ見よがしに他の男に流し目をくれ、相手が気づくと喉を鳴らして近づいていく。慌てて止めに入れば、ふっくらした唇を蠱惑的に歪め、手を放す方が悪いとうそぶく……。

 選ぶ相手を間違えている。何故、一方的に消耗するばかりの関係を続けてきたのだろう。それは周囲に劣等感を覚えているせいだ。コンプレックスを退けるべく、才色兼備でぎょしがたい女の手綱を握って自分に自信を持たせたかったし、仲間に一目いちもく置かれたかったからだった。馬鹿げている。金と美貌に恵まれたお嬢さまのパートナーとして羨望の的になるどころか、実際は従者のように這いずり回って憐憫の情を集めていただけだったのだ。

「そろそろですよ」

 軽く肩を叩かれて目が覚めた。

「悪夢かな。眉間に皺が寄ってた」

「起こしてくれればよかったのに」

「疲労困憊って感じだったから。寝言が出ない限り、そっとしておこうと思って」

 響彦は下向きに窓を指差した。覗き込むと、紺碧の海に緑なす島々が浮かんでいた。急に遠くへ来たという実感が湧いた。両手を突いて顔を寄せ、眼下の景色に見とれていると、機体はぐんぐん高度を下げて着陸の態勢に入った。

「ここからが長いんですよ。取りあえず腹ごしらえでもして、覚悟しといてください」

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