十六話 その犠牲を糧に

「ヘックシュ!」

 馬上の達子が大きなクシャミをした。龍二は達子を自身の前に乗せ、最後尾にいて敵の追撃がないか時たま後方を振り返りながらついていった。

「寒いのか?」

 尋ねると、少し、と答えた。

 三月とはいえ、今日は確かに少し肌寒い。

 龍二は馬にくくりつけていた大きな羽織のような服を器用に取り出した。

「これ羽織ってろ。ちょっとはマシになるから」

 そう言って、彼女の肩に羽織らせてやる。

「・・・・・・ありがと」

 達子はそれを片手で落ちないようにしながら彼に背を預けた。

(俺達が最後尾で良かった)

 龍二は達子を片手でしっかり落馬しないように抱き寄せながら後ろを振り向いた。













 蜀軍は道を急いでいた。負傷者が多い今の状態では、あの軍団に追いつかれでもしたらたちまち全滅の憂き目を見るだろう。建業に一日でも早く達して今後の対応を協議しなければならない。

(遅いな、兄上は?)

 殿を白龍達に任せて先頭に来ていた関羽はチラリと後ろを向いた。

 成都を脱出してから大分経つ。が、兄玄徳は一向にこちらに追いついて来る気配が見えない。

 心配な顔をしていた彼女に趙雲は

「大丈夫ですよ。殿はそのうちきっと来ますよ」

と励ました。

「・・・・・・そうね。そうよね」

 関羽は気を取り戻して行軍を急がせようとした。だけれども、やはり遅い。一体兄上は何をしているのだろう?

 よく見渡せば、さっきまで一緒にいた高蘭の姿がどこにも見えない。一体どこに行ったというのだろう。

 その時、突然後方から凄まじい轟音が轟いて大地が揺れた。何事かと行軍を停止し振り返ると、成都城の方角から巨大な炎の柱が立ち上り──恐らく成都城であろう───黒煙が上がっているのが眼に入った。

「城が・・・・・・燃えている!?」

───今まで住んでいた町が狂った炎に呑まれていく・・・・・・・・・

 呆然と立ち尽くす中、関羽の脳裏に不吉な、それでいて最悪な予感がよぎった。

(まさか兄上は!?)

 その予感を彼女は信じたくなかった。そうあってほしくなかった。勘違いであってほしかった。関羽は自分の予感を否定してくれると信じて孔明に訊いた。

「孔明。兄上は、まさか・・・・・・・・・」

 それを聞いた孔明は俯いたまま何も答えない。

 それを肯定と受け取った関羽は己の勘が不幸にも的中してしてしまったことからあぁと馬上でよろめいた。

「おい、孔明! どうゆうことだよっ! お前さっきすぐ来るっつたじゃねぇか!」

 張飛が感情に任せて孔明の胸ぐらを掴んだ。眦が裂けんばかりに見開いて孔明を睨んでいる。それは孔明を非難していると言っても過言ではなかった。

 孔明は俯いたまま総身を震わせていた。見れば、眼に涙している。

「やめなさい! 翼徳!」

 それを見た関羽が慌てて止めに入る。

「孔明を責めても意味はないぞ。翼徳将軍」

 護衛将隊総隊長劉超も同じく彼女を止めに入る。

「離せ! 離してくれ姉貴! コイツは兄貴を───」

「翼徳殿。これは玄徳殿の意思だ」

 劉超がそう言うと張飛は途端に大人しくなり劉超を見る。

「どういうことだ、榮元」

 劉超がそれに応えるように静かに話し出す。

「玄徳殿は、我らを確実にあの不死の軍団から逃がす為にはああするしかないと考えていたのだ。封徳が奴らに対する作戦を説明していた時には、既にその意思は固まっていたのだよ。

 だが勘違いしては困るぞ翼徳殿。玄徳殿はただ単に自己満足やそういった小さいこだわりの為に死んでいったのではない。まして安易に貴殿らとの約束を破ったのではない。貴殿ら姉妹や子龍殿のような立派な将軍達なら、きっと董卓を討ってくれると信じた故の決断だ。

───さて、翼徳将軍。ここまで聞いて、貴殿は兄である玄徳殿のご遺志を無駄にするおつもりか?」

 淡々と、時折感情を交えて劉超は語り終えた。張飛以下、その場にいた者達は皆劉備という人間に対して涙していた。特に妻である孫尚香や、親友である公孫瓚は慟哭していた。

「そんな・・・・・・つもりは・・・・・・ねぇよぉ」

「ならば、こんな所で泣きベソをかいているより、急ぎ呉へ向かうべきではないのか?」

「お、おう」

 張飛は涙を強引に拳で拭った。

「よしお前ら、兄貴の為にも行くぞっ」

 蜀軍は燃え盛る成都の町に黙祷を捧げると関羽・張飛姉妹を先頭に一路呉へ急いだ。亡き主君の遺志を貫くために─── 












 爆音と揺れに驚いた龍二が馬を止め振り向くと成都城の方から巨大な炎の柱が上っているのが見えた。

「城が・・・・・・・・・」

 唖然としている龍二は何か嫌な予感がした。虫の知らせのように、心臓がほんの一瞬チクリと痛みを発した。

 見計らったように、彼の横に青龍が姿を現した。

「劉備が死んだ」

 単刀直入に、事務的な口調で告げた。二人の全身をざわりと何かが駆け巡った。

「なっ・・・・・・・・・!?」

「何でよ、青龍? どういうことよ!?」

 龍二は二の句が次げす、達子の声が裏返っていた。必死に悲しみを押し殺しているようだった。

「お主らを逃がす為に自らを犠牲に奴らを道連れにしたのじゃ」

「・・・・・・クソッ!」

 龍二は悔んだ。唇が裂けるくらいに噛み締めた。自分の力不足を恥じるように手綱を力強く握り締めた。彼の胸では、達子が声を押し殺して泣いていた。そんな彼女を彼は片方の手で強く抱き寄せた。

「なあ青龍」

 決意の炎を宿した瞳で龍二は青龍を見据える。

「何じゃ? 龍二」

「今から建業へ行ってこの事を孟徳さんと文台さんに伝えてきて欲しいんだ。後、陛下にも」

「・・・・・・ほう?」

 青龍は珍しいものを見るような眼で龍二を見た。それほど龍二の発言は意外だったのだ。

「世界が動いた。俺達は何としても生き残ってあの野郎を倒さなきゃならねぇ。それに、相手は一筋縄じゃいかねぇんだ。仲間は多くて損はねぇし、何よりこうでもしなきゃアイツには勝てる気がしねぇ」

 この男、時々神がかったように大きく見えることがある。言葉の意味など多少違うことやとんちんかんなこともあるが、こういう時は何とも言葉にしがたい説得力がある。

(ふふん、こやつめ言いよるわ)

 黙って聞いていた青龍はうむと頷いた。

「よかろう。その役目、引き受けようぞ。既に劉協(献帝の本名)の元には高蘭が伝えに行っておる」

「分かった。頼む」

 青龍が去ると、龍二は泣きじゃくっている達子の耳元で囁く。

「劉備さんの遺志、無駄にしちゃいけない。俺達は生きてアイツを討たなきゃならないんだ。それに、ヤスも救わなきゃならないしな」

 達子は涙をゴシゴシと拭って「うん」と頷いた。まだ涙が見えるが、彼女も意思を固めたようだ。

「行くぞ」

 龍二は手綱を引いた。












 帝は于丹の案内で、呉に近い九江の森深くに建てられていたボロ小屋に身を潜めていた。

「叔父上は無事かなぁ?」

 各地を蹂躙している正体不明の軍団は後の調査で董卓と淮南わいなんの袁術の軍であることが判明した。この軍により河北は大打撃を被り、北平と魏が略取され多くの人命が失われたと報告を受けた時には、キンキンに冷えた滝に放り込まれてその拍子に世界がぐわんと天地逆転して頭を岩に叩きつけられて眼から火花が激しく散るくらいの衝撃を受けた。

 董袁連合軍が叔父の蜀へ矛先を向けるのは時間の問題だった。叔父は彼らにとって憎むべき相手の一人なのだ。

 そんな折に、高蘭が臣下の案内を受けて参内したのだ。その表情は暗く沈んでいたのはすぐに分かった。

「陛下、ご報告します。我が主君劉玄徳は先刻、董卓・袁術連合軍より我ら臣下を逃がす為、奴らを道連れに城共々自爆しました」

 帝は「は?」という顔をして、嘘だろと高蘭を詰問した。叔父が死んだなんてにわかに信じたくない。

 しかしそれは覆ることはなかった。

「残念ですが、事実です。私は玄徳殿より直接、後事の事を頼まれましたので」

 高蘭の声は沈んだそれになっていた。それで帝はようやくその事実を受け入れた。帝は崩れ落ち辺りを憚ることなく泣き叫んだ。それに触発されたように于丹らも涙した。

 そんな中、高蘭は亡き主君から預かっていた物を帝に手渡した。「亡き主君から陛下への書状です」

 ぐしゃぐしゃの顔をした帝はそれを受け取ると眼を通した。

 読み終えると、ぐしゃぐしゃの顔を整えて、両頬を力一杯ひっぱたいた。

「───高蘭。叔父上のご遺志、この劉協、確かに受け取ったぞ」

 その顔は凛としていて、さっきまでの劉協はいなかった。揺るがぬ決意の眼と威厳らしさを備えた彼は、まさしく後漢王朝の皇帝そのものであった。

「陛下。私は一足先に呉へ参ります。後で神亀と鳳凰が来ますので、彼らと共に呉へいらしてください」

 高蘭が去って暫くして、沈痛な面持ちの神亀と鳳凰が現れた。

「協ちゃん・・・・・・・・・」

 二人も高蘭から劉備爆死の知らせを聞いたのだろう。涙を堪えているのが傍目からも分かる。

「神亀、鳳凰」

 帝が俯いている二人に宣誓するように語気を強める。

「叔父上は我々の中にちゃんと生きている。

───私には叔父上程の仁徳はないが、その志は継げるつもりだ。分かるな、二人共」

 二人が頷く。

 帝は立ち上がると、つかつかと歩きだした。そして、その場にいた全員に力強く告げた。

「呉へ向かう。皆の者、急ぎ支度をせよ」
















 呉都・建業。

 建業城の一室には逃げ延びてきた魏の諸将や呉の面々が集まっていた。今後の対策を話し合うためだ。

「ほう、皆揃っておるな? 手間が省けて助かる」

 突然渋い声が彼らの耳に入ったのでぎょっとしてそこを見れば、入り口に青い髪、青き鎧の男が扉に寄りかかるようにしてこちらを見ていた。

「何奴だ!」

 誰かが怒鳴った。

「わしは『四聖』の青龍と申す者だ」

 男はそう名乗った。

 彼らは困惑していた。四聖といえば、嘘かホントか分からないくらい信憑性に欠ける白朱なる仙人とも神とも自称している男が作った槍や剣に宿っているという者達のことで、青龍はその筆頭であるらしいというのは知っている。

 眉唾物と思っていたが、本当にいたとは思わなかった。しかし、本物かどうか確証はない。

 その男から衝撃的なことが放たれた。

「劉玄徳が死んだ」

 ダンと誰かが机を思いっ切り叩いて立ち上がった。

「そんな馬鹿なことがあるか! 玄徳がそう易々と死ぬわけがないだろう!」

 叫んだのは曹操だった。

「残念ながら事実だ曹孟徳。あの男はわしらを逃がすために自らの意思で城に留まり、敵と共に逝ったのだ。お主らが必ずや董卓共を討ち果たしてくれると信じた上での行動じゃ。

───直に、関雲長ら蜀軍と共にお主の親友元譲と文遠が来よう。彼らがその証人じゃ。話を聞くといい」

 それだけ言うと、青龍はふっと姿を消した。

『今宵、高義孟が劉玄徳の書を携えて訪れるであろう』

 付け加えるように青龍の声だけがそこに響いた。

(玄徳・・・・・・・・・)

 曹操は唇を噛み締め、拳を力強く握った。他の者も、顔を雲らせ、号泣していた。それだけ、劉玄徳は皆から慕われていた。

 やがて、建業城に蜀軍が入城したが皆悲しみにくれていた。曹操は夏候惇や張遼から先程青龍から聞いたのと同じ報告を受けて、その場に崩れ落ちた。

 劉備の死はそれほどに大きかった。











 その日の夜、関羽ら旧蜀軍の文武官が建業城にある一室に集められていた。彼らが割り当てられた自分の部屋で休んでいると『四聖』青龍なる男が現れ、夜にこの部屋に来るよう指示されたからであった。

「一体何の用なのかしら?」

 関羽を始めとする文武官は不思議に思っていた。そのことを青龍に問うた者もいたが、行けば分かる以外は一切何も言わなかったらしい。

「何でボクも呼ばれたのかなぁ?」

「私達も・・・・・・ね?」

 公孫瓚や護衛将隊の面々もこの場に召集されている。ただ、おかしいことに劉封ら将隊の総隊長である劉超と同副総隊長の高蘭の姿は見えなかったし、何より趙蓮らの姿もない。およそどうでもいいような案件であっても自分達はさておき、彼らが呼ばれないことはこれまでただの一度としてなかった。

 だから余計に違和感を感じたのだ。今日という日の呼出しは。

 半刻位経った頃だろうか、ドアをゆっくりと開けて部屋に軍師諸葛亮が入ってきた。その手に一通の書状を握っていた。

「皆さん、お揃いですね」

「孔明ぃ。一体こんな所あたし達を集めて何の用なのよ」

 張飛がフグのように膨らんでぶーたれる。

 まぁまぁと張飛を宥めつつ、孔明は早速と言わんばかりに持っていた書状を突き出して

「これより、我らが殿の遺された書状を読みあげます」

 そう言った。

「兄上が遺した書状・・・・・・・・・?」

 きょとんとする彼らに孔明は大きく頷いて見せて

「はい。殿が我々に託した〝希望〟について記されています」

 と握っていた書状を広げた。

 彼女達にしてみれば、託しただの希望だのおよそ見当がつかない単語に互いの顔を見遣り何の事やらと疑問符を頭に浮かべるだけだった。

「読みますよ」

 そんな関羽らを無視するように孔明は遺書を読み始めた。















 同刻、やはり魏や呉の文武官も、関羽らとは違う一室に集められていた。ただ、こちらは蜀と違い、呼ばれたのはほんの一握りの者達だけだった。その誰もが政治や軍事の中核を担う者達ばかりだ。

 魏からは曹操・夏候惇・張遼・司馬懿が。呉からは孫堅・孫権・黄蓋・周瑜が主な面子である。

「彼は、我々に一体何の用があるのだろうな? 文台よ」

「さぁな。皆目見当もつかん。ただ、重大な何かであろう」

 そんな感じで彼が来るまで雑談に花を咲かせていると、きぃとドアが開く音がした。

「お揃いですか?」

 部屋に入ってきたのは自分達を呼び出した青龍ではなく護衛将隊副総隊長高蘭だった。

「夜半遅くに集まっていただいて申し訳ありません。私は、蜀の護衛将隊副総隊長の高蘭、字は義孟と申す者です。貴方がたに、亡き主君劉玄徳からの書状を預かって参りました」

 高蘭は慇懃に近い態度で彼らに挨拶した。

「玄徳の書状・・・・・・だと?」

 曹操が訝しがる。それを証明する為に、高蘭は手にしていた遺書を彼の前に突き出し劉備の筆で間違いがないか問い質した。じろじろと眼線を上下にしきりに動かしながら眺めた後、奴の書に間違いないと答えた。

「それで、その遺書には一体何が書かれているのだ?」

「はい。玄徳殿が貴方達に託した物です」

 高蘭は書状を広げた。

 そして、読み始めた。

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