第2話 四方屋凌と、思い人との初めての共同作業。
鷲崎由利亜は五人の友人に囲まれてミュージアム内を見て回っていた。
「私古典の授業で見るくらいしかわからないよぉ……」
「さっき聞いた話だと、全編合わせて五十三巻もある長編小説らしいもん、そんなに読んでたら人生終わっちゃうよ!」
弾む会話に鷲崎はニコニコと笑顔を向けている。
いや人生は終わらないから、とか、実は五十四だよとか、その手の突っ込みは全員が放棄していた。
「これなに?」
一人がそういうと、話は区切りを見せ全員がそちらに目をむけあれやこれやと何に見えるか言い始める。各々が見たままの感想を言い合っていると、後ろからガヤガヤと騒々しい集団が近づいてくるのを誰ともいわず感じ、ひそひそと身を寄せ合い始める。
そんなこじんまりとした集団に、恐れていたことが起こる。
「あれ? めっちゃ可愛い子いるよ」
「マジ? うを、すっご、しかも胸でか」
「あの子だべ? やばいな、揉みたいわあ」
恐れていたことが、起きてしまったのだ。
自分たちが大切にしている美少女を、下種の目に触れさせ、あまつさえ下卑た目線で貶めさせてしまうという、恐れていたことが。
「ちっちゃい感じもたまんねえわぁ、一発やらしてくんねえかなぁ」
その一言で集団は笑い声を上げ、ゲラゲラと歩き去っていく。
その笑い声の中で、五つほどの堪忍袋が切れた音を、鷲崎は聞いた。幻聴だったはずだ。だが、確かに耳に届いていたし、次の瞬間、自分に対し特に仲良く接してくれている背の高めな友人が、その集団に歩み寄っていくのを見ていた。
「由利亜は先行ってて」
満面の笑みでそういわれ、止めることもできず「う…うん、わかった…」と、友人たちを送り出してしまう。
しかし、鷲崎はよく知っていた。
あの五人が運動部が盛んではない桜の森高校において、数少ない運動部員であり、しかもその所属部活が合気道部であり、さらにさらに、その大会においてとても、そう、とても優秀な成績を収めていることを、鷲崎は知っていたし、彼女にも武道の心得があるがゆえにわかってしまった。あの男子生徒たちは、これから女子生徒によってひどい目にあわされるのだということが。
「まあいっか、さすがにそろそろ一人になりたかったし、太一君からの電話もチェックしなきゃだし!」
男子生徒の一人が盛大に空を舞うのを横目に独り言つと、少し速足で出口を目指すのだった。
当然、この五人の合気道部員たちは、一週間の部活停止、および反省文の提出を言い渡されることになるが、それはまた別の話。
***
信二の提案で建物の外に出ると、一つ強い風が吹き抜けていった。天気が変わる兆候だろう。そんな風に考えて、四方屋は一人ため息を吐いた。信二にばれれば殴られると思い、今度は小さく。
今日このまま雨が降るようなことになれば、もともと計画していた橋の上での告白も無理だったということになる。それならば、昨日自分が鷲崎に声をかけられなかったのは、逆に良かったのかもしれない。などと考えてしまった自分が恥ずかしかったのだ。
「十月の京都って、意外と涼しいんだね」
「ん? 十月なんてどこも大体涼しいだろ」
もっともなことを言う信二。
「そりゃそうかもだけどさ」
「どうする、中見て回るか?」
「んー……」
「正直、源氏物語なんて興味ないから俺はパスなんだが」
「信二…お前、それをここで言うなよ……」
ファンがいるかもしれないこの場所で……。と、きょろきょろとおびえながら告げる四方屋に、信二はというと、「別に大したことじゃないだろ」と、どこ吹く風だ。
「そういえば、信二は根っこから理系だったっけ」
「お前と違って合理的な考え方の持ち主なんだ」
「自分で合理的とかいう合理主義者は、いつか自分の生産力が地球に害しかもたらしていないことに合理的考え方で思い至ってほしいもんだ」
「口の減らねえ奴だ」
「基本一つだしね」
「二つある奴なんか見たことねえよ」
「下ネタ的には女の口は三つだよ」
「いま下ネタ関係ないだろ」
はああ、と信二は両手を広げてみせ、盛大なため息を吐いた。
「もうバス戻っててもいいんじゃないか?」
そろそろここにいるのも飽きた。そういって、信二がキョロキョロとバスを探し始める。
「それもそうだな、話してしかいないなら、どこにいても同じか」
「そうそう」
キョロキョロしながら返事をした信二が、「ん?」と疑問符を放った。
が、四方屋は信二とは逆方向に目をやり、バズを探しているので、その声の意味に気づくことはない。
「なあ」
信二に声をおかけられ、ようやく、「ん?」と、さっきの信二と発音は同じだが、意味の違う言葉をもって答えた。
「ちょっと」
「なに?」
「あれだよあれ」
ぐいぐいと袖を引っ張られ、そちらを向くと、信二の指さす方向には一人の女の子と一人の男の子が立っていた。会話は聞こえないが、どうやら男の子は泣いていて、女の子はその子をなだめているようだった。
「迷子かな?」
「男のほう、外人っぽいよな。観光客の子供か?」
少年のほうの見た目にそう結論をつけると、少女のほうを見て、首を傾げた。
女の子のほうの容姿は、考えるまでもない。四方屋や信二たちの通う高校の制服を身にまとっていたのだから。
だが、ここで重要なのはその少女の容姿ではなく、背丈のほうにあった。
「あの身長差って、遠近法とかじゃないよな」
「頭撫でてるし、たぶん」
困惑する二人の真意は簡単で、少年と少女の身長が、どう見ても同じくらいなのだ。それでいて、少年のほうは明らかに小学生かそれぐらいであり、少女のほうは自分たちと同じ制服を着ていることから高校生であることが分かる。
では、あの少女は何者なのか。
当然、この問いに関する解を出すことに、難しさを感じる桜の森高校生がいるはずもなかった。
駐車場の端の、パッと見では暗くてよく見えないところで、少年に声をかけている高校生の正体は。
「あれ、お前の惚れてる女じゃん」
鷲崎由利亜その人だった。
「その言い方やめて?」
「じゃ、行ってら」
声に耳を貸すこともなく、四方屋の背中を強く押し、自分は身を反転させると、
「俺はやっぱりちょっと源氏に興味が湧いてきたから」
「ひ、卑怯者!!」
おたっしゃで。そう言い残して去っていく友人を追うことはできなかった。
なぜなら、どう見ても、少年に声をかけている想い人が、困っていたから。
「Are you lost ?」
少年と少女の近くまで行くと、四方屋は意を決して声をかけた。鷲崎には当然制服で自分の身の上を理解してもらえると思っていたし、彼にとって言語の壁というものはそれほど高いものではなかった。
声をかけることに抵抗があったのにはもっと別に理由があり、それはつまり、子供が苦手ということだったりした。
数度、迷子なのかと尋ねるが、少年は泣き止まず、返答もない。
「え、と、四方屋君、英語できるの?」
横から名前を呼ばれ、自然、背筋が伸びた。
声の主は、彼の想い人である鷲崎。急に言葉をかけた四方屋に少しいぶかしむ目を向けながら、そう聞いてきた。
「う、うん、少しなら、ね」
「そっか、よかったぁ…。私英会話は全然で、この子何言ってるかもわからないし……」
「あ、あはは…」
残念ながら、泣いてるだけで何も言っていないし、時折「ママパパ」と叫ぶ節もあるが、それしかわからない。
助けに来たはずなのに、正直すでにギブアップ間近だった。
泣く、泣く、泣く。
目の前の少年を落ち着かせる方法は、何か……。
手元を見るが、四方屋の持ち物は現在お茶一本。
せめてスマホやゲーム機があれば何かができたかもしれないが、学校行事中である以上、持ち歩けるものに制限があるのは仕方なかった。
仕方ない、そんな風に思考を済ませるのは早計だ。そう四方屋は思った。
泣いている少年を泣き止ませ、かつ、こちらの言葉を聞いてもらい、少年にも語ってもらう。そのために必要なのは信頼関係だ。男の子という人種と、最も手っ取り早く信頼関係を築くための方法。それを四方屋は知っていた。知っていた、というよりも、彼もかつてはこの少年のように幼い時分があった。その時の経験則だった。
そう。男の子の好きなもの。それは、戦隊シリーズや仮面ライダー、モンスターが出てくる何かや、ゲームやスマホなんかではなく。
迷子になったとき、最も触れて落ち着けるもの。それは、綺麗かつ、優しい女の人の。
「鷲崎さん、少し、手を後ろに組んでもらってもいいかな」
「へ? い、いいけど、なに?」
そういって、四方屋は泣きじゃくる少年の手を取り、
「ごめんなさい!!!!」
思いっきり、鷲崎の胸に押し当てたのだった。
そう。
迷子の時、男の子が触れて一番落ち着くもの、それは、綺麗で、かわいらしくて、優しい女性の、豊満な胸部。つまり、「おっぱい」だ。
これは、四方屋の経験則であり、絶対の法則などでは決してない。
彼が幼少のころ、迷子になった際に出くわした女性が、その手のアプローチで泣きじゃくる四方屋少年を落ち着かせ、両親の元まで送り届けてくれた過去があるだけで、そんなこと知ったことではない鷲崎にとって、その行為は偏に変態の所業であった。
「本当に…申し訳ございませんでした……」
左の頬を真っ赤に腫らした四方屋は、九度目の謝罪を、地面に額をつきながら口にした。
少年の手が鷲崎の胸に触れた後、一瞬の沈黙が場を支配した。
少年は驚きと多幸感で口を噤み、涙を止めた。
その次の瞬間。
四方屋の顔にグーの拳が炸裂したのだ。体重と比例しないほどの強力な一撃で、おそらくは四方屋の頬の骨は一部欠けることになったのではないかと考えられた。
「も、もう、そんなに謝らないで! 私も殴っちゃったし! 顔上げて、ね?」
「で、でも……」
自分が最大禁忌を犯したことを理解しているからこその、この土下座である。
目的だった男の子を泣き止ませることには成功したが、自分の行いは最低以外の何物でもない。そう四方屋は理解しているし、何より、好きな人の胸を触らせてしまったことに本当の本当に罪の意識を感じていた。
が、最も強く感じていたのは、少年への嫉妬だったりする。
「ほら、この子が怖がってるから、早く立って?」
「う…うん…」
このことを話したら、信二は笑ってくれるだろうか。そんな風に考えて、あの友人が笑わないところが想像できない四方屋だった。
立ち上がり、もう一度「本当にごめんなさい。償いはしますので、どうか警察にだけは……」そういうと、「だからいいってば、それに、触ったのは四方屋君じゃなくてこの子じゃんか」と、少女は笑った。
笑ったのだ。
そう。あの時と同じように。
きっと、この少女は覚えていない。だから俺も今は忘れよう。今はこの少年を両親のもとに送るのが先決だ。
四方屋の考えは固まった。少女の笑顔には、それだけの力があった。
「それでなんだけど、四方屋君て英語は得意なのかな?」
「日常会話ならできるくらい、かな」
「そっか、じゃあ、喋れるんだね。よかった……」
胸をなでおろしながら、ちらと、四方屋の後ろにおびえるように立つ少年に目を向ける。
視線から逃げるように、四方屋の背後に隠れる少年。
先ほどの光景がそれほどに衝撃的だったのだろう。軽く一メートルは飛んだ四方屋の身を案じていた。
四方屋はそれに、問題ないと応じ、少年に問いかけた。
「Where are you from?」
「I`m from Chicago」
「Do you know where the hotel is staying?」
その質問には首を横に振ることで、少年は否定を示した。
京都に住む外国人というわけではないらしいと分かり、ホテルの場所を聞くも、わからずじまい。
両親は居らず、ホテルの場所もわからない。
完全に迷子だ。
「Do you know where your parents are?」
この質問にも、少年は首を横に振る。
四方屋にも、ここまでは予想通り。どこにいるかわかれば、そこまで連れていくだけでよかったから、あえて質問してみただけ。わからないなら正攻法に出るしかない。
「何にもわからないってことでいいのかな?」
「そう、だね。だから、とりあえずミュージアムの人に言いに行こうと思うんだけど」
「うん。それがいいと思う。もともとここにいたんだし、探し回るよりはその場所にいた方がいいって太一くんも言ってたし」
「太一君?」
突然の人名に、反応してしまう四方屋。
「あ、いや、忘れて」
少し目をそらし、苦笑いで返す鷲崎に首をかしげて見せるが、「じゃ、とにかく行こっか」と流されてしまった。
「Follow me」
四方屋は、少年と手をつなぐと、建物の入り口に向かって歩き出す。
* * *
少年は忘れないだろう。
ふわりとした手の感触。
意識が飛ぶような柔らかな香り。
そこから繰り出された、ショットガンのような一撃を。
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