はるか.1 ありがとう
「晴れて良かったね〜」
後部座席に座っている私のかわいい姪っ子は窓枠に肘と顎を乗せてご機嫌に外を眺めている。
今日はお気に入りのスカイブルーのワンピース。
スカートから見える足は左右交互にプラプラと揺れている。
「はるちゃんがてるてる坊主いっぱい作ってくれたからだよ。ありがとうね」
隣に座るお義姉ちゃんは我が子の頭を撫でながらもどこか緊張の面持ち。
仕方ない。
私たちが向かっているのはお兄ちゃんがいなくなったあの場所。私は何度も足を運んでいるがお義姉ちゃんは事件後、一度もあの場所に訪れていない。
「怖いの」
あの時、あの場所にいたお義姉ちゃんはどんな気持ちだったんだろう。
『桜? 春斗が崖から転落して行方不明なの!』
あの日、お義姉ちゃんのスマホから連絡してきたのは秋穂さんだった。
「お姉ちゃん! お兄ちゃんは? お兄ちゃんはどうしたの?」
訪れた地元警察にいたお姉ちゃんは憔悴しきった表情で秋穂さんに抱きかかえられていた。
「古川春斗さんの身内の方ですか?」
「はい。古川春斗は私の兄です」
「捜索していた者たちが戻ってきましたのでご報告させてもらいたいのですが」
警察官は私の肩越しにお姉ちゃんを見ると、諦めた様子で私に再度向き合った。
「はい、よろしくお願いします」
私は別室に促され事件発生からの経緯の説明を受けた。
「冬馬さんが?」
「目撃者も何人もいますので間違いありません。残念ながら彼はすでに亡くなっているので詳しい話はその場にいたお兄さんの婚約者の妹さんに確認しました」
計画性はなく、突発的なものだったと説明された。
元々イベントが行われた会場は年に何人もの方が転落事故で命を落としている場所であることもあり、主催者側には厳重に注意をしたとのこと。
いまさらそんなことしてもお兄ちゃんは帰ってこない。コスト削減でリスクマネジメントを怠った結果としか言いようがない。
お兄ちゃんの所持品はお姉ちゃんが預かっていた鞄の中に全て残っていた。
ないのはスマホと身につけていた婚約指輪だけ。スマホはすでに壊れているようで位置情報は拾えないらしい。
自宅に帰ってきてからのお姉ちゃんはしばらは茫然自失としていた。何日も塞ぎ込んだまま、食事もろくに摂らずに。そんなお姉ちゃんを救ったのは———
「おめでとうございます」
「えっ?」
「妊娠されてますよ。いま8週目といったところですね」
「あか、ちゃん? 私と……はるくんの、あかちゃん」
その日からお姉ちゃんは変わった。ご飯もちゃんと食べるようになり、自分の身体を労わるようになっていた。
「お姉ちゃん、私ここに住みたい」
身重のお姉ちゃんが心配で、私は半ば強引にお姉ちゃん達の部屋に転がり込んだ。
「料理も任せてくれていいから」
一人暮らしでパワーアップしたわたしを見せたかったんだけど、それはなぜか固辞された。
「できることはやらないと」
和かに言ってくれた表情には少し焦りの色が見えたのは気のせいだろうか?
「つっ! あっ、たたたたた」
「お姉ちゃん大丈夫?」
「んっ、ちょっと待って」
「うん」
「はあはあ。うん、5分間隔くらいだ。ごめん桜ちゃんタクシー呼んでくれる?」
「陣痛? わかった!」
「はあはあ、慌て、なくていいからね。ベッドの隣に置いてある鞄持ってきて」
夕食の片付けをしている途中に、お姉ちゃんの陣痛が始まった。もう5分? 痛みはだいぶ前からあったはず。それまでそうとう我慢していたんだろ。
病院に着くとすぐに分娩室に入って行った。初産だと10時間以上かかることもあると聞いている。
「お兄ちゃん。お姉ちゃんとあかちゃんを守って」
私には待合室で1人お姉ちゃんとあかちゃんの無事を祈るしかできない。遠くから足音が近づいてくる。コツコツとなる足音は少し焦っているかのようだ。
「桜」
名前を呼ばれ顔を上げると肩で息をする秋穂さんが立っていた。
秋穂さんはいま、この総合病院に通っている。事件の後の話し合いの中で自分の病気のことを知らされた秋穂さんは自ら病院に行くと言い出した。
「秋穂さん」
「お姉ちゃんは?」
私が腕時計で時間を確認すると2時間を経過していた。
「2時間ってとこです。まだ何も」
「そう」
分娩室の扉をチラッと見た秋穂さんはそのまま私の隣に腰を下ろした。
「落ち着いてるんですね」
お茶を飲みながら息を整えている秋穂さんからは緊張感が感じられなかった。
「桜が緊張しすぎなのよ。お姉ちゃんと春斗の子供よ? 心配しなくても大丈夫よ。それに、また春斗と会えると思うと楽しみで仕方ないわ」
「半分お兄ちゃんの血だから心配なんです」
「そう? いざというときの春斗は頼り甲斐があったわよ」
「そうかもしれませんけど———」
『バンッ』と扉の開く音に目を向けると看護師さんが手招きをしてくれた。
「生まれましたよ。母子ともに健康です」
私はうれしさのあまりその場で泣き出してしまいました。
「うっ、うぅぅう」
秋穂さんは私の背中を抱きしめるようにして分娩室の中に連れて行ってくれました。
「おぎゃ、おぎゃ」
涙で滲んでいる視界の中でお姉ちゃんがあかちゃんを抱いているのがわかりました。
「お姉ちゃん、お疲れ様」
「秋穂もきてくれてたんだ。桜ちゃん、女の子だよ」
涙を拭いお姉ちゃんの傍に行くと、しわくちゃの顔をした生まれたばかりの姪っ子がぴったりとお姉ちゃんにくっついていました。
「……お兄ちゃん」
「ふふふ。なんとなくだけど目元ははるくんに似てる気がする」
あかちゃんを胸に抱いたお姉ちゃんはとても優しい表情をしていました。
♢♢♢♢♢
「はるか」
「ん?」
「名前」
出産から2日後、ベッドであかちゃんを抱いたお姉ちゃんが呟くかのように話しかけてきました。
「はるか?」
「安直かな?」
苦笑いを浮かべているお姉ちゃんに秋穂さんは勘付いたらしく
「春夏? たしかに字面はイマイチかも」
「やっぱり?」
「遥は? 遥か彼方の遥」
「なんか遠くに行っちゃいそうでね」
「子供は巣立つものじゃない?」
私の提案を秋穂さんがフォローしてくれた。
「考え過ぎだよ」と笑い飛ばすことはできない。
「ひらがなは? やわらかい感じしない?」
お姉ちゃんはしばらく考えた後、私に「採用」と言ってくれた。
「はるかちゃん。あなたの名前は古川はるかよ。よろしくね、はるちゃん」
♢♢♢♢♢
「お母さん、桜ちゃん。早く早く!」
(いつも休みの日になると1人で出かけてしまう桜ちゃんが珍しく私も連れて行ってくれた。もちろんお母さんも一緒に)
お母さんと一緒だね
(はいはい。お母さんは緊張していたらしく、いつもより口数が少なかった気がする)
珍しいね
「はるちゃん、崖になってるから気をつけて」
「大丈夫よお姉ちゃん。丈夫なフェンスも付いたんだから」
(そこは昔から転落事故が多いところだったんだって。それで桜ちゃん達が交渉してフェンスを設置してもらったみたい)
そんなところに遊びに行ったの?
(遊びには行ってないよ)
違うのかい?
(山道をしばらく歩いたところにイベントができるようなステージが設置されてたの。そこにつくとお母さんはフェンスに額をつけながら泣いてたの)
「ずっとこなくてごめんねはるくん。逃げてばかりでごめんね」
(そんなお母さんを桜ちゃんは背中から抱きしめてたの)
「お姉ちゃん。お兄ちゃんはここにいないんでしょ? 大丈夫。今日は私が踏ん切りをつけるために付き合ってもらっただけだからね」
(中学生の時に聞いたんだけど、桜ちゃんは行方不明になっていたお父さんをずっと探してたんだけど、7年経ったことで一区切りつけようとしてたんだって)
七回忌?
(みたいなものかな? 訳のわかってない私は普通のハイキング気分でお母さんの心配をよそに1人で河原まで行っちゃってね)
「あれ? お母さん達きてないの?」
(不安になってまわりをキョロキョロ探していたら車椅子に乗って絵を描いている人に会ったの)
「こんにちは。おじちゃんお絵かきしてるの?」
「んっ? こんにちは。リハビリって言ってね。手を動かす練習をしてるんだよ」
「そうなんだ。私もお絵かき好きなんだけど上手に描けないの」
「一緒に描く?」
(そのおじさんはスケッチブックを1枚破り私に渡してきたの)
「うん! えっと」
「ここに座る?」
(自分の膝をポンポンと叩いて座らせてくれたんだけど、なぜだか怖いとか嫌だとかは思わなかった)
「ありがとう。あれっ? おじちゃん指輪してるんだ。お母さんもそっくりな指輪して———」
「はるちゃん!」
「あっ、お母さん。桜ちゃん」
(その時、お母さんと桜ちゃんが追いついてきたから、私は2人のところに駆け寄ったの)
「勝手に行っちゃだめでしょ? 心配したよ」
「ごめんね桜ちゃん、あのおじちゃんとね、……お母さん?」
(お母さんはおじちゃんを見つめながら徐々に瞳に涙を浮かべて行ったの)
「はるくんっ!」
(お母さんはおじちゃんに走り寄るとしっかりと抱きしめたの)
「えっ? はるくん?」
「間違いない! 絶対にはるくんだよ」
(お母さんはしっかりとおじちゃんを見つめると自分の左手をおじちゃんの左手に重ねた)
「ほら、同じ指輪。あなたの指輪の内側には私の名前が刻まれてるの」
(お母さんはおじちゃんの指輪を外して内側を確認してた)
「ほらね"夏希"って書いてあるでしょ? 漢字で書くのって難しいんだって。それでね。私の指輪にはあなたの、あなたの名前が刻まれてるのよ"春斗"ってね」
♢♢♢♢♢
『それでは花嫁からご両親への感謝のメッセージを届けていただきます』
「お父さん、お母さん。これまで育ててくれてありがとうございました」
こうして娘の結婚式に出られる日がくるとは思わなかったよ
(そうだね。きみと一緒に感謝の言葉を聞けて良かったわ)
あなたは号泣してたもんね
(きみもでしょ)
大階段の上に登って、背中を向けたはるかは首だけ振り返りみんなに声を掛けてたね
「いくよ! ちゃんと受け取ってね! せ〜のっ!」
(放物線を描いたブーケはなぜか私の手にすっぽりと収まった)
「あ、あれっ?」
「「えっ〜!」」
「……なっちゃん」
「次は! お父さんと、お母さんの番だよ!」
(はるかはきみに似て気配りができるのよ)
はるかはあなたに似て優しいんだよ
「一緒に新婚旅行行こうね〜!」
(まだまだ現役でいないとね)
「私! お母さんよりも幸せになるからね〜!」
やれやれ、あなた達には一生勝てそうにないよ
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