第47話 きみがいたから

 頬に何かが触れる感覚で目が覚めた。

目の前には愛しい我が子がその小さな手で私の頬をペチペチと叩いている。

 その笑顔は愛するきみにそっくりだよ。


「ママを起こしてくれたの? はお利口さんだね」


 あの時、体調が悪かったのは妊娠していたからだったよ。


「お姉ちゃん! 春斗が! 春斗が冬馬くんに崖から突き落とされた! 2人とも落ちちゃったよ!」


 秋穂の同僚に連れて行かれたところはすでに人集りができていた。マスコミもいたのですでに撮影が始まっていた。


 崖の下の滝壺までは高さ40メートルを越えていた。消防と警察の捜索の結果、冬馬くんは転落から2時間後下流で遺体で発見された。


 きみは……はるくんは未だに行方不明のまま。


 あの事件から2年以上が経過して私の環境も変化した。仕事ははるかの出産に合わせて在宅勤務となった。会社には月に数回顔を出しているが、はるかは社内のアイドルとなっている。

 ことの顛末を知っているのは社内でも数人しかいない。


 私が大学を卒業したあの日、きみは指輪と一緒に婚姻届をプレゼントしてくれたね。


「提出するのは2年後の卒業式ね」


 約束通り、きみたちの卒業式の日に提出したよ。桜ちゃんには何度も何度も確認されたけどね。


「本当にいいの? お兄ちゃん戻ってこないかもしれないんだよ?」


 私の今後の心配をしてくれたんだろうけど、この子と生きていくと決めたんだからね。きみ以外の人なんて考えられないよ。


「古川さ〜ん」


 最初は戸惑っていたこの苗字にも今では慣れたものだ。はるかの検診でよく病院で呼ばれるからね。


「ふふ〜ん、ふふっ」


 はるかが両手を伸ばして要求してくる。


「はいはい。抱っこですね〜」


 身体を起こして両手でしっかりとはるかを抱き上げる。


「きゃっきゃ」


 うれしそうに手足をバタバタさせたり、私の頬をペチペチと叩いたりしてくる。


「やったな〜」


 仕返しとばかりにはるかを抱きしめて頬擦りをするとご機嫌な笑顔を返してくれた。目元はきみにそっくりなんだよ。


 桜ちゃんはいま、この家で一緒に暮らしている。


「お姉ちゃん、私もそばでお手伝いさせて欲しい」


 週末になるときみの車であの滝に向かっている。きみを探しに。

 ブラコンの彼女はきみと同じ道を選ぼうとしているよ。この夏の吉乃建設のインターンに応募したみたい。


「お姉ちゃん、ごめんなさい。私があんなことしなければ、冬馬くんが事件を起こすこともなかったかもしれない」


 あの事件の後、事情聴取のために連れて行かれた警察で秋穂は頭を下げてきた。

 彼女は自分のせいで事件になったと後悔している。それはきっかけだったのかもしれないけど彼女だって被害者だ。あの行動を責めることはできない。


「私もお姉ちゃんの手伝いをさせて」


 いまではmetamorphoseの常連となった私の髪をカットしながら秋穂は呟くように言ってきた。


「手伝いって?」


「子守でもお使いでも、困ったことがあったら連絡して。家もお姉ちゃん家の側に引っ越したから」


 彼女なりの償いなのかもしれない。

私はその申し出をありがたく受け取った。


「わかった。何かあったら頼らせてもらうね」


 実際のところは桜ちゃんが同居しているのであまり頼れていない。それでもたまに家に遊びに来てくれるようになり、彼女も姪っ子にメロメロになってしまった。


「はるかちゃ〜ん。秋穂ちゃんが遊びにきましたよ〜」


「はるかちゃん。おばさんが遊びにきたよ。の間違いでは?」


「はいはい。桜おばさんはうるさいですね〜」


 桜ちゃんともすっかり仲良しだよ。

ふたりとも男っ気もないのでこの先が少し心配だよ。


 古川家には私から電話で伝えた。おじさんとおばさんは高速を飛ばして現地までやってきた。


「夏希ちゃん! 桜! 春斗は? 春斗はどうなったんだ?」


「捜索中ですけど、まだ発見されていません」


「春斗は無事なのか?」


「生死さえ、わかりません。ただ、一緒に転落した冬馬くんがは亡くなりました」


 2人もまた、月に何度か現地を訪れていると桜ちゃんに聞いた。


 私の両親には、はるかが生まれた後に報告した。


きみが行方不明だということ。

きみと結婚したこと。

はるかが生まれたということ。


「……そんなことが」


 父は電話の向こうで言葉を無くしていた。


 うちの両親にはまだはるかに会わせていない。本人たちは初孫に会いたいと言ってるけど、そんな気にはなれない。


 はるかを抱っこしながら写真立てに視線を移した。あの事件の数日前に無理言って早めてもらった結婚式の前撮り写真。


 シルバーのスーツに身を包んだ君と、黄色ベースの淡いレインボーカラーのドレスを着た私。


 きみは「生きてて良かったよ」と優しく微笑んでくれたね。


ねぇ、はるくん。きみはいまどこにいるの?


フワッ


 開けた窓から春の優しい風が舞い込んできた。


「いい風」


 はるかは虚空に見つめながら手足をパタパタさせている。


 フワッと再度舞い込んだ風が私達を包み込んだ。


「パ、パ」


「えっ?」


 はるかがうれしそうに両手を広げてその小さな手を伸ばしている。


「はる、くん?」


やっと気づいた。


 きみは、はるくんはずっと私達のそばにいてくれたんだね。


 はるかをぎゅと抱きしめる


 頭をポンポンされる


「マ〜マ?」


「ふふっ。桜ちゃんに教えてあげないとね。はるくんは……パパはここにいるよってね」


フワッ


 また春風が舞い込んできた。


 季節は巡り春から夏へ。


「はるくん」


(私達はずっと一緒だね)


うん。僕たちはずっと一緒だよ


fin

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