「おかえり」

「はいよ。ただいま」


 橘さんの手には、何通かの郵便物と、松宮さんからの、例の書類らしき大きな封筒があった。

 橘さんはいつものように、郵便物とキーケースをリビングのローテーブルに置いて、カバンはソファーに投げる。ジャケットから出したタバコとライターもテーブルへ置く。

 俺は逐一目で追っていた。

 橘さんも、そんな俺の視線に気づいたのか、ソファーへどかっと腰を下ろしたあと、こっちを振り返った。


「なに?」

「え?」

「いやさ、すげえ見てるから」

「その封筒──」


 ああともらした橘さんは、あの大きな封筒を取ると、「これ?」とかざして見せた。


「きょう、松宮さんが来て……」

「うん。松宮先生に電話もらったよ」

「……」

「あのさ、佑。悪いんだけど、俺、めちゃくちゃ腹減ってんのね」

「……あ。ごめんっ」


 ダイニングテーブルに夕飯を並べながら、やっぱり気になる橘さんのほうを、ちらちら盗み見た。

 いつもだと、橘さんはあそこで郵便物の封を開け、必ず中身を確認する。

 しかし、松宮さんの封筒には手をつけなかった。

 それがどういうことなのか。

 ちくっと胸に刺さるなにかを感じながら、あえて、俺は見なかったことにした。




 ふと目が覚め、となりを確認すると、ベッドに橘さんはいなかった。

 最近こういうのが多いなと思いながら携帯を開けば、ディスプレイの時刻は五時半となっていた。

 朝早くからまた呼び出しか。

 俺は、ベッドで伸びをしてから、トイレへ立つ。

 用を足したあと、リビングのほうに足を向けると、中から低い声がした。

 ゆっくり、細めにドアを開ける。

 橘さんがソファーにいて、携帯の画面を見つめていた。

 呼び出しではなかったらしい。

 橘さんはしばらくそうしたあと、ようやく携帯を閉じ、髪を掻き上げた。ソファーの背もたれに頭を乗せ、深々と息を吐く。そして、なにかを吹っ切る感じで、さっと立ち上がった。

 俺には、その背中が、まるで別人のように見えた。

 どうしてなのか自分でもわからない。

 俺は、立ち上がった橘さんがこっちへ来ると思い、ドアを閉めた。

 しかし、目の前は静かなまま。もう一度、ドアをゆっくり開けてみると、橘さんはソファーではなくベランダにいた。

 柵に頬杖をついて、くわえタバコで煙を吐く。いまなにを考えているのか、その顔からは、俺は読み取れない。

 橘さんは体を返し、柵に背をもたせかける格好になった。持ってきていたリビングの灰皿へ灰を落とす。

 俺は、ベランダの窓の前に立った。

 初めてかもしれない。橘さんに自分の存在を知らせるのに、こんなに緊張しているのは。

 外は明るいけど、俺のいる部屋は暗いからか、橘さんは目を凝らすような仕草をしていた。やがて俺を認識できると、笑顔になる。

 少し躊躇した。でも、すぐに窓を開けて、サンダルをつっかけた。


「おはよ……」

「おはよう、早いね。それとも起こしちゃった?」


 橘さんは、短くなったタバコを揉み消し、その灰皿をベランダのコンクリートに置いた。

 ほんとに初めてだ。なにかを話すのにも、体がこんなに強ばっている。


「……橘さんさ、もしかして、また頭痛がひどいんじゃないよね」

「俺? ぜんぜんひどくないよ」

「でも、あんまし眠れてないみたいじゃん。呼び出しがあったわけじゃないのに、こんな早くから起きてる」

「たまたまだって」


 笑いながら言って、柵の向こうへ視界を移す。

 そんな橘さんが、いまにもここから消えてしまいそうで、俺は思わず抱きついていた。

 戸惑うような、びっくりしているような間があってから、橘さんは、俺の頭を優しく撫でてくれた。


「なに。佑、どうした」

「俺、なんの役にも立たないかもしれないけど、精一杯一緒に考えて悩むから、なんかあったら話してほしい」

「うん。ていうか、ほんとどうしたの」


 もっと言いたいことがあったはずなのに、俺はただ首を横に振って、腕に力を入れた。



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