三
「おかえり」
「はいよ。ただいま」
橘さんの手には、何通かの郵便物と、松宮さんからの、例の書類らしき大きな封筒があった。
橘さんはいつものように、郵便物とキーケースをリビングのローテーブルに置いて、カバンはソファーに投げる。ジャケットから出したタバコとライターもテーブルへ置く。
俺は逐一目で追っていた。
橘さんも、そんな俺の視線に気づいたのか、ソファーへどかっと腰を下ろしたあと、こっちを振り返った。
「なに?」
「え?」
「いやさ、すげえ見てるから」
「その封筒──」
ああともらした橘さんは、あの大きな封筒を取ると、「これ?」とかざして見せた。
「きょう、松宮さんが来て……」
「うん。松宮先生に電話もらったよ」
「……」
「あのさ、佑。悪いんだけど、俺、めちゃくちゃ腹減ってんのね」
「……あ。ごめんっ」
ダイニングテーブルに夕飯を並べながら、やっぱり気になる橘さんのほうを、ちらちら盗み見た。
いつもだと、橘さんはあそこで郵便物の封を開け、必ず中身を確認する。
しかし、松宮さんの封筒には手をつけなかった。
それがどういうことなのか。
ちくっと胸に刺さるなにかを感じながら、あえて、俺は見なかったことにした。
ふと目が覚め、となりを確認すると、ベッドに橘さんはいなかった。
最近こういうのが多いなと思いながら携帯を開けば、ディスプレイの時刻は五時半となっていた。
朝早くからまた呼び出しか。
俺は、ベッドで伸びをしてから、トイレへ立つ。
用を足したあと、リビングのほうに足を向けると、中から低い声がした。
ゆっくり、細めにドアを開ける。
橘さんがソファーにいて、携帯の画面を見つめていた。
呼び出しではなかったらしい。
橘さんはしばらくそうしたあと、ようやく携帯を閉じ、髪を掻き上げた。ソファーの背もたれに頭を乗せ、深々と息を吐く。そして、なにかを吹っ切る感じで、さっと立ち上がった。
俺には、その背中が、まるで別人のように見えた。
どうしてなのか自分でもわからない。
俺は、立ち上がった橘さんがこっちへ来ると思い、ドアを閉めた。
しかし、目の前は静かなまま。もう一度、ドアをゆっくり開けてみると、橘さんはソファーではなくベランダにいた。
柵に頬杖をついて、くわえタバコで煙を吐く。いまなにを考えているのか、その顔からは、俺は読み取れない。
橘さんは体を返し、柵に背をもたせかける格好になった。持ってきていたリビングの灰皿へ灰を落とす。
俺は、ベランダの窓の前に立った。
初めてかもしれない。橘さんに自分の存在を知らせるのに、こんなに緊張しているのは。
外は明るいけど、俺のいる部屋は暗いからか、橘さんは目を凝らすような仕草をしていた。やがて俺を認識できると、笑顔になる。
少し躊躇した。でも、すぐに窓を開けて、サンダルをつっかけた。
「おはよ……」
「おはよう、早いね。それとも起こしちゃった?」
橘さんは、短くなったタバコを揉み消し、その灰皿をベランダのコンクリートに置いた。
ほんとに初めてだ。なにかを話すのにも、体がこんなに強ばっている。
「……橘さんさ、もしかして、また頭痛がひどいんじゃないよね」
「俺? ぜんぜんひどくないよ」
「でも、あんまし眠れてないみたいじゃん。呼び出しがあったわけじゃないのに、こんな早くから起きてる」
「たまたまだって」
笑いながら言って、柵の向こうへ視界を移す。
そんな橘さんが、いまにもここから消えてしまいそうで、俺は思わず抱きついていた。
戸惑うような、びっくりしているような間があってから、橘さんは、俺の頭を優しく撫でてくれた。
「なに。佑、どうした」
「俺、なんの役にも立たないかもしれないけど、精一杯一緒に考えて悩むから、なんかあったら話してほしい」
「うん。ていうか、ほんとどうしたの」
もっと言いたいことがあったはずなのに、俺はただ首を横に振って、腕に力を入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます