いつの間にか、二人の役割はあべこべになっていた。俺がフライパンを持ち、橘さんがご飯とみそ汁を盛っている。


「ん? なに?」

「山岸さんて、だれ?」


 きのう、橘さんに電話をしてきた女のヒト。


「すごく気になってたんだけど、勝手に電話に出ちゃった手前、切り出せなかったんだよね」

「……」

「ただの知り合いっていうのは、松宮センセの一件でわかった。でも、やっぱりちょっと気になる」


 なにげない感じを出したくて、手は止めずに訊いた。それでも、語気は若干強くなってしまった気がする。


「そのうち、必ず紹介するから」


 橘さんはにっこりと笑って言ったけど、その笑顔がいつもより曇って見えて、俺は頷くことしかできなかった。




 本日のバイトも終わり、ロッカールームへ戻った俺は、いつも通りゆったりと着替えていた。行きは晴海さんの車だったけど、帰りは橘さんが迎えにくるはずだから、そんなに急ぐこともない。

 バイトへ向かう前、晴海さんにうちへと寄ってもらい、自前の服に替えた。さすがに、あのだぼだぼのまんまで行く勇気はない。

 なにやら面倒なことになったと、改めて思う。警察の人に送り迎えをしてもらうなんて、どこの要人だってハナシだ。

 とはいえ、あいつらが捕まるまでのガマン。きっと、あと二、三日の辛抱だ。

 事務所を出ると、辺りにはいつもの闇が広がっていた。

 店の裏にもある駐車場に一台の車が止まっている。

 こっちに鼻先を向け、煌々と灯りを焚く車内には、昼間にも会った姿が……。

 俺に気づくと、パワーウインドウを下げた。


「お疲れさまです。こんばんは」


 晴海さんだった。

 橘さんと同じ、蔦屋敷署の刑事課強行盗犯係に所属している、晴海喬也(はるみきょうや)刑事。年が近そうだと、俺は勝手に思っていたけど、じつは橘さんのーコ下の二十七才で、意外と年上だった。

 俺は、運転席の窓からひょっこり出てきた顔に会釈して、後部座席のドアを開けた。橘さんはどうしたのかと思いながら、シートに収まる。


「あの、だいぶ待ったんじゃないですか?」

「そうでもないですよ」


 車内灯を消し、こっちを振り返った晴海さんは、眼鏡の向こうの瞳を細めた。それから、無線機のマイクになにかを告げ、カーナビにも視線をやって、車を出した。


「ところで橘さんは……」


 無線機のスピーカーは助手席のほうにあるのか、俺の前で、ときどきノイズ混じりの声がした。

 カーナビはオーディオの上にあって、この近辺だろう地図と、その上を行く、いくつかの印が映っていた。

 昼間も晴海さんに乗せてもらったけど、そのときは普通の車だった。ということは、さっきのはマイカーで、これは警察の車なのかもしれない。


「いま、橘さんは人と会っていて、まだ手が離せないということなんで、俺が代わりに」

「あー……」


 たしか、朝もそんなこと言ってたっけ。

 夜になっても終わらないなんて、一体なんなんだろう。俺の事件関係の人だろうか。


「真中さん、すみません」

「え?」

「橘さんじゃなくて」


 バックミラーで合った目が、困ったふうな笑みを浮かべている。

 俺は前のめりになって、大げさに手を振ってみせた。


「いいえ。ぜんぜんっ」


 すぐにシートへ沈んで、顔を両手で覆った。

 そんなつもりはなかったんだけど、もしかすると、ものすごくがっかりした顔をしていたのかもしれない。

 それから、しばらく気まずい空気が流れた。

 そのまま橘さんのマンションまで行くかと思われたが、途中であることに気づいた。


「あ、あの……晴海さん」

「ん?」

「ここまで来ておいて、本当に本当に申しわけないんですが、いまからまたうちに寄ってもらえませんか」


 橘さんのところでお世話になるなら、何日かぶんの着替えが必要だった。

 本当は昼に寄ったとき、荷物をまとめて、邪魔でも持っていくつもりだった。でも、迎えは橘さんが来ると思っていたから、そのときでいいやと片づけてしまっていた。

 手を合わせ、矢継ぎ早にそのことを伝えると、晴海さんはすぐにUターンをしてくれた。イヤな顔ひとつしないで、大丈夫だとも言ってくれる。

 その、対向車線へ移るときの見事なハンドルさばきったら。コンビニを出るときや、信号での停発車も、そういえばすごく滑らかだった。


「まるでハイヤーみたい」


 俺は感じたままを口にしてみて、警察官に向けていい言葉じゃなかったと、はっとなった。慌てて頭を下げる。

 すると、運転席の背中がくすっと笑った。


「もともと俺は、警らが主な仕事のところにいたから」

「……けいら?」

「まあ、見回り担当ってやつですか」


 交通課の機動警ら係。所轄管内の道路を回って、不審車両や不審者に職務質問したり、事件の初動捜査にあたったりするんだそう。


「なので、まずは徹底的に運転技術を叩き込まれるんですよ」

「へえー……。それって、やっぱりいまの刑事さんとは違う感じなんですか?」

「まったく違いますよ」


 と、また晴海さんは小さく笑った。

 警察の詳しいことは、俺はぜんぜんわからないから、警察官イコール、ドラマの刑事みたいに思っていた。でも、中には地味に活躍している人たちもいるんだ。

 ……ていうか。あの人だけが、いちいち派手すぎるってのもあるかもしれない。


「なんで移っちゃったんですか?」

「単純に、刑事課の人員不足で。刑事課は、外勤に加えて内勤も多いから、結構ハードワークなんですよ。それで配属希望者も少なくて」

「かなりウザい先輩もいちゃったりしますしね」

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