要人警護
一
翌朝、目が覚めると、となりで寝ていたはずの橘さんがいなかった。
うちのセミダブルよりワンランク上の広いベッド。目をこすりながら、上体を起こした俺は、枕元に置いといた携帯を確認した。時刻は、ちょうど七時。
ベッドを降り、改めて自分の姿をかえりみる。
ゆうべはイレギュラーなお泊まりで、着ているTシャツは橘さんのもの。だから、かなりぶかぶかだ。
長いズボンも、丈がぜんぜん合わなくて、仕方なくハーフパンツになった。
「おはよう……」
洗面所とトイレに寄ってからリビングのドアを開けた。
包丁がまな板を叩く音と、フライパンで油が弾いている音。バターの匂いも、この腹をつっついてきた。
対面式のキッチンで、おはようと返してくれた橘さんは、白のYシャツに紺のネクタイという珍しい姿だった。黒の前掛けをして、朝食の準備中だ。
「なに、その格好。……もしかして出張?」
髪もきっちりと後ろに結わえてある。
俺はぺたぺたと足を進め、橘さんの横に立った。
こっちへ目をやり、フライパンのオムレツも整え、橘さんは首を横に振る。
「きょうは人に会うんだ。……ところで、ゆうべのことなんだけど、たしかバイトは午後からだったよね」
「うん」
「俺、送りはできそうもないから、晴海に来てもらうことにした」
サラダの横に手作りドレッシングを見つけ、味見でもしようかと思ったけれどやめた。
……そういえばそうだった。
またすっかり忘れていたけど、そういうことになったんだった。
じつはきのう、橘さんと松宮さんが潔白だったことに満足しきって、お腹の痛みもきれいさっぱり忘れていた。
「きみを襲ったやつらは、必ず俺たちが捕まえるから。なにも心配しないで」
軽い夕ご飯をとっていたときに、橘さんに言われて、危うく連れ去られそうになったあのことを思い出した。
見たこともない人だった。だから、あんなことをされる理由もぜんぜんわからない。
万に一つ誘拐目的だとしても、うちは平々凡々なサラリーマン家庭だ。俺が巡らす限り、そういうことに巻き込まれる要素がない。
となると、一日でも早く警察に捕まえてもらって、俺を連れ去ろうとした理由を本人たちに聞くしかない。
あの暴漢たちの顔を橘さんも目にしたのか、俺を気づかってくれたのか、そのときの状況を少し訊いただけで、すぐに違う話題を出した。
正直、俺のほうがいろいろ訊きたいくらいで、当事者のくせに役立たずで申しわけない気もしたから、ものすごく助かった。
今後を話すうち、身の安全が保証されるまで橘さんの家で住むことが決まった。まあ、それはぜんぜん構わないんだけど、外出時に警察の護衛がつくというのはいただけない。
話が終わって、橘さんは一旦署に戻ると、マンションを出ていった。それから俺が寝つくまで帰ってこなくて、ふと目を覚ましたときには、もうとなりで寝ていたんだ。
「──佑? どうした?」
ゆうべの回想にふけっていた俺の頭上で、怪訝そうな声がした。
「ううん。……あ、なんか手伝うことある?」
「じゃあ、ご飯とみそ汁盛ってくれる?」
食器はそこだからと、橘さんはフライ返しで後ろのカップボードをさす。
「そういえば、佑。松宮先生の診察、一回でも受けといたほうがいいよ」
二人分のお茶碗とお椀を出し、まずはご飯をよそっていると、橘さんがそんなことを言った。
「……なんで。バイトに行けるくらいなんだから、必要ないよ」
「念のためにさ」
「必要ないって」
遮るように、俺は強めに言った。
橘さんが閉口しているのをなんとなく感じ、振り返ったら、じっとこっちを見ていた。
「……どうしてわかんないかな」
しゃもじとお茶碗を持ったまま、俺は背伸びをして、半開きになっている唇を素早く奪う。離れ際にわざと音を立ててやって、俺がなにをしたかを気づかせる。
「一番のクスリは、あんたなんだって」
「……」
「早く捕まえてよ」
面食らっている顔に笑みが戻っていく。フライパンを五徳へ落とした橘さんは、俺に抱きついてこようとした。
それを、寸でのところでかわした。
「なんで避けんの」
「なんか、なんとなく」
そこへ、携帯の着信音が割って入ってきた。橘さんはいち早く反応し、レンジのツマミを戻してからキッチンを出ていく。
フライパンに残されたオムレツを盛りつけていると、橘さんが早々に電話を終え戻ってきた。
その姿を見て、俺は思い出したことがあった。
「……あのさ。橘さん、一つ訊いてもいい?」
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