要人警護



 翌朝、目が覚めると、となりで寝ていたはずの橘さんがいなかった。

 うちのセミダブルよりワンランク上の広いベッド。目をこすりながら、上体を起こした俺は、枕元に置いといた携帯を確認した。時刻は、ちょうど七時。

 ベッドを降り、改めて自分の姿をかえりみる。

 ゆうべはイレギュラーなお泊まりで、着ているTシャツは橘さんのもの。だから、かなりぶかぶかだ。

 長いズボンも、丈がぜんぜん合わなくて、仕方なくハーフパンツになった。


「おはよう……」


 洗面所とトイレに寄ってからリビングのドアを開けた。

 包丁がまな板を叩く音と、フライパンで油が弾いている音。バターの匂いも、この腹をつっついてきた。

 対面式のキッチンで、おはようと返してくれた橘さんは、白のYシャツに紺のネクタイという珍しい姿だった。黒の前掛けをして、朝食の準備中だ。


「なに、その格好。……もしかして出張?」


 髪もきっちりと後ろに結わえてある。

 俺はぺたぺたと足を進め、橘さんの横に立った。

 こっちへ目をやり、フライパンのオムレツも整え、橘さんは首を横に振る。


「きょうは人に会うんだ。……ところで、ゆうべのことなんだけど、たしかバイトは午後からだったよね」

「うん」

「俺、送りはできそうもないから、晴海に来てもらうことにした」


 サラダの横に手作りドレッシングを見つけ、味見でもしようかと思ったけれどやめた。

 ……そういえばそうだった。

 またすっかり忘れていたけど、そういうことになったんだった。

 じつはきのう、橘さんと松宮さんが潔白だったことに満足しきって、お腹の痛みもきれいさっぱり忘れていた。


「きみを襲ったやつらは、必ず俺たちが捕まえるから。なにも心配しないで」


 軽い夕ご飯をとっていたときに、橘さんに言われて、危うく連れ去られそうになったあのことを思い出した。

 見たこともない人だった。だから、あんなことをされる理由もぜんぜんわからない。

 万に一つ誘拐目的だとしても、うちは平々凡々なサラリーマン家庭だ。俺が巡らす限り、そういうことに巻き込まれる要素がない。

 となると、一日でも早く警察に捕まえてもらって、俺を連れ去ろうとした理由を本人たちに聞くしかない。

 あの暴漢たちの顔を橘さんも目にしたのか、俺を気づかってくれたのか、そのときの状況を少し訊いただけで、すぐに違う話題を出した。

 正直、俺のほうがいろいろ訊きたいくらいで、当事者のくせに役立たずで申しわけない気もしたから、ものすごく助かった。

 今後を話すうち、身の安全が保証されるまで橘さんの家で住むことが決まった。まあ、それはぜんぜん構わないんだけど、外出時に警察の護衛がつくというのはいただけない。

 話が終わって、橘さんは一旦署に戻ると、マンションを出ていった。それから俺が寝つくまで帰ってこなくて、ふと目を覚ましたときには、もうとなりで寝ていたんだ。


「──佑? どうした?」


 ゆうべの回想にふけっていた俺の頭上で、怪訝そうな声がした。


「ううん。……あ、なんか手伝うことある?」

「じゃあ、ご飯とみそ汁盛ってくれる?」


 食器はそこだからと、橘さんはフライ返しで後ろのカップボードをさす。


「そういえば、佑。松宮先生の診察、一回でも受けといたほうがいいよ」


 二人分のお茶碗とお椀を出し、まずはご飯をよそっていると、橘さんがそんなことを言った。


「……なんで。バイトに行けるくらいなんだから、必要ないよ」

「念のためにさ」

「必要ないって」


 遮るように、俺は強めに言った。

 橘さんが閉口しているのをなんとなく感じ、振り返ったら、じっとこっちを見ていた。


「……どうしてわかんないかな」


 しゃもじとお茶碗を持ったまま、俺は背伸びをして、半開きになっている唇を素早く奪う。離れ際にわざと音を立ててやって、俺がなにをしたかを気づかせる。


「一番のクスリは、あんたなんだって」

「……」

「早く捕まえてよ」


 面食らっている顔に笑みが戻っていく。フライパンを五徳へ落とした橘さんは、俺に抱きついてこようとした。

 それを、寸でのところでかわした。


「なんで避けんの」

「なんか、なんとなく」


 そこへ、携帯の着信音が割って入ってきた。橘さんはいち早く反応し、レンジのツマミを戻してからキッチンを出ていく。

 フライパンに残されたオムレツを盛りつけていると、橘さんが早々に電話を終え戻ってきた。

 その姿を見て、俺は思い出したことがあった。


「……あのさ。橘さん、一つ訊いてもいい?」

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