俺は、かっとなって、橘さんの大きな体を押しのけた。どしどしと廊下を歩く。


「佑」


 リビングのドアノブは掴めなかった。後ろから橘さんに抱きすくめられ、行く手を阻まれた。


「松宮先生にヤキモチ焼くなんて、そんなに俺のことが好きだったのかー」

「ヤキモチじゃない」

「そんな、まんなかゆうさんに質問です」


 緩む気配のない馬鹿力に抗議するように俺は身をよじって、橘さんのシャツを引っ張った。


「はあ?」

「あなたはこのたび、知らない土地へと引っ越してきました。それから三日。お腹を出して寝ていたまんなかさんは、ものすごい風邪を引いてしまいました。さて、そのあとどうしますか?」

「だから、俺はまんなかじゃなくて、ま、な、か。ケーサツ署の窓口のおっさんも間違えてたんだぞ。あんただろ。変なこと教えたの」

「それより質問の答えは?」


 いい年して腹を出して寝るかとか、反論どころはいろいろあったけど、口も手も止めて考えた。


「まあ、気合いで治す」

「いやいや。速やかにお医者さんにかかってください」

「いいじゃん、べつに。俺は、なるべく医者には行きたくねえの。あのじーちゃん先生のとこだって、近くになかったら、ゼッタイにかかりつけなんか──」


 そこまで言うと、俺ははっとなった。顔を上げ、橘さんから体を離す。


「そうか……」

「きみがなにを気にしてるのかわからないけど、かかりつけの医者って、普通は家から近いもんでしょ。草加せんべいだって、松宮先生だけにあげてるんじゃなくて、ブー課長にも定岡さんにも晴海にもあげてるんだよ。松宮先生は、ほら、仕事でもちょくちょく顔を合わせるから」


 俺はてっきり、松宮さんと橘さんは警察署で知り合ったんだと思っていた。

 検案の依頼を受けて、ときどき現場にやってくる美人女医。そんな彼女に目をつけた橘さんは、どうせなら自分もお世話になろうとクリニックに通うことにした、と思っていた。

 だが、実際は違っていた。

 橘さんは、こっちに来たばっかりのころ、具合が悪くなって、近くにあった病院へ行った。そこがたまたま、松宮さんのとこだったんだ。


「頭痛のことも、単なる職業病みたいなものなのに、医者通いしてるってなったら、変な心配しちゃうでしょ」

「……うん」


 橘さんの広い胸に、俺は自らすり寄った。額をくっつけ、胴に回した腕に力を込める。


「そっか、そうなんだ……。松宮センセとは、恋人だったわけじゃないんだ」

「え?」


 俺の言葉に驚いているような橘さんの声。

 俺は腕をほどいて、慌てて言う。


「あ、いや。恋人だったんでもいいけどさ」

「……」

「ただ、松宮センセとは、これからも会うことになりそうだから、どんな顔していいのかな、と思ったりなんかして」


 俺の肩をがしっと掴み、橘さんは自分から離した。目を閉じ、眉間にしわを寄せる。


「なに、どうしたんだよ」

「きみは知ってたんじゃないの? いや、俺は話してないから、知らないのか。でも、薄々感づいていて、それでも俺のこと好きになってくれたんじゃ……」

「は? なに言ってんの。一人で」


 俺が窺うと、眉間のしわがますます深まった。


「俺……女の子には全く興味ないんだよね」

「はい?」

「いわゆるゲイってやつ」


 最後は、あっけらかんと口にした橘さん。

 俺は思いっきり身を引いた。廊下の壁に背中から張りつく。

 そして、隣近所にまで響いただろう音量で絶叫した。


「しーっ。だから、佑。声が大きいって」

「じゃ、じゃあ、橘さんは、はなから松宮センセは眼中になかった、と。……そんでもって、俺のことは、はなからそういう目で見ていた、と」

「うん。……と言うべきか、違うと言うべきか」

「そ、」


 それはそれでいろいろ安心できるにせよ、やっぱりあぐらはかいていられない。

 橘さんは、頭のネジがところどころ緩いものの、外見も性格もすこぶる男前だ。そんな人が、どんなにその気がないと言っても、そうは問屋が卸さないってこともある。

 ……それに、今度はべつ次元の問題もある。


「だけどね、佑。さすがに、男ならだれとでもってわけじゃないよ。なんだか、ものすごい想像をしているように見えるけど」

「……わかった?」

「うん」

「いま、定岡さんの顔がよぎった」


 その途端、橘さんが吹き出した。顔の前で手を振る。


「定岡さんはああ見えて奥さんがいるんだよ」

「え。定岡さんて結婚してんの?」

「うん。で、いまは単身赴任中」

「へえー……」


 まだ壁に張りついたまま、定岡さんの顔を思い浮かべた。きっと、いまごろくしゃみでもしてるんじゃないだろうか。


「もしかして……幻滅した?」


 そこへ、珍しく真剣さを響かせた橘さんの声が降ってきた。見上げれば、ちょっと物憂いげな瞳とかち合う。

 あまりに不安そうだったから、俺は間髪容れずに「ううん」と返した。すると、橘さんの堅かった表情が徐々にほころんでいく。


「いまとなったら、俺も、橘さんとおんなじゲイなわけだし」


 俺だって、だれでもよかったわけじゃない。橘さんだったから、その胸に思い切り飛び込めたんだ。




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