二
俺はめったに見れない、橘さんの頭のてっぺん。思わず触れたくなったけど、開かせた手を揉んだ。
「あら、橘くん」
と、松宮さんが待合室へ戻ってきた。俺から退くように立ち上がった橘さんを見て、くすっと笑みをもらした。俺のカバンをソファーに置き、こっちにも目をやる。
「はい、真中くん。カバン」
「ありがとうございます……」
「松宮先生。どうも、佑がお世話になりました」
「いいのよ。気にしないで。それより、ずいぶん早かったじゃない」
「駐車場に着いたら、電話が鳴ったんで」
「まあ、まさしくグッドタイミングね」
と目を細めた松宮さんへ、極上の笑みで、橘さんは返している。
こうしてはたから見ても、美男美女のお似合いカップルだ。俺は一瞬にして蚊帳のソト。
このツーショットだけは、目の当たりにしたくなかった。ソファーを立ち上がり、俺は勢いよく、松宮さんに頭を下げた。
「本当にありがとうございました。失礼します」
カバンを肩にかけながら、病院の入り口にあった靴に履き替え、一目散に外の闇へ出た。
橘さんが追ってくる気配がする。
「佑」
「あんたもありがと。じゃあね」
「ちょっと待ってよ。送るから」
病院の駐車場で、いよいよ腕を取られた。
「いらない」
「自分がどういう目に遭ったか、きみが一番わかってんでしょ。なのに、一人で帰すわけにはいかないよ」
少し、橘さんは表情を曇らせた。
「……わ、わかってるよ。でも、あんたの車はいらない」
俺を訝しげに見ていた橘さんが、なにかを察したように手を離した。
このイライラにやっと気づいたか。俺はそう思ったけれど、当の橘さんはニヤニヤしていて、ぼそっと呟いた。
「なるほど」
足をすくわれ、いきなり体が横になった。橘さんのあごが目の前にある。
結構な広さがある駐車場のど真ん中で、あろうことか、俺は「お姫さまだっこ」をされた。
「なにすんだよ!」
「きみが車はいらないって言うから。だったら俺でどうですか、みたいな?」
「はあ~?」
俺は痛む腹もなんのその、手足をじたばたさせた。
「降ろせよ!」
「ちょ、佑。声が大きいって。警察にでも通報されたら、シャレになんないでしょ」
俺を抱えたまま、橘さんが走る。逃げるようにして、建物のあいだの狭い通路へ入った。
体が上下に振られ、俺はそこにある首にしがみついた。
橘さんは通路を抜け、道路を横断し、ある建物へ入った。
「ここって……」
見覚えのありまくる広いエントランス。昼間と同じで、郵便受けがずらりと並んでいる。
「はい、とうちゃーく」
「ていうか、俺は自分の家に帰りたいんだよ。なんで、あんたんとこなんだ」
「佑のとこも、ほとんど俺んちみたいになってんだから、うちだってきみんちでしょ」
「……わかったから。もう降ろせって」
そこへ、オートロックの自動ドアが開いて、住人らしき人がやってきた。
俺だけじゃなく、さすがの橘さんもフリーズ。
戸惑いつつもガン見していくその人は、郵便受けから手紙を出すとそそくさと立ち去る。
ようやく橘さんは俺を降ろした。
「悪ふざけがすぎたかなあ」
「ほんとだよ……」
「まあ、見られてしまったものはしょうがないってことで」
橘さんが破顔う。
目の下のしわとか、頬の上がり具合とか、口の端のくぼみとか。もう降参と言うしかないほど、こっちまで笑顔になってしまうじゃないか。
俺は、いからせていた肩を正した。橘さんの後ろをおとなしく歩き、エレベーターへ乗った。
五階に着くと、先に降りた橘さんの背中へ、あれだけ触れるのをためらっていた松宮さんのことを投げかけた。
「やたら近くじゃね」
「……ん?」
「だから、松宮センセんとこと、あんたんち。がっつり目と鼻の先じゃん」
部屋の鍵を開けたあと、橘さんは一瞬だけ動きを止めた。玄関の明かりを点け、さもいま気がつきましたみたいな返事をする。
「ああー」
「あんた、松宮センセんとこに通ってんだろ? なんで言ってくれなかったのかわかんないけど、相当な頭痛持ちらしいじゃん」
「……」
「あの人、橘さんから、いつも草加せんべいをもらってるって言ってた。普通さ、医者と患者がそんなふうにする? 俺、かかりつけの医者に、物なんかあげたことないよ」
「ちょっ、ちょっと待って」
橘さんは振り返ると、目をぱちぱちさせながら俺の腕を取った。だけども、隠しきれない笑みが口元辺りに出ている。
「いまの言葉……。俺の欲目を差し引いてもヤキモチみたいに聞こえるのは、気のせいかな」
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