俺はめったに見れない、橘さんの頭のてっぺん。思わず触れたくなったけど、開かせた手を揉んだ。


「あら、橘くん」


 と、松宮さんが待合室へ戻ってきた。俺から退くように立ち上がった橘さんを見て、くすっと笑みをもらした。俺のカバンをソファーに置き、こっちにも目をやる。


「はい、真中くん。カバン」

「ありがとうございます……」

「松宮先生。どうも、佑がお世話になりました」

「いいのよ。気にしないで。それより、ずいぶん早かったじゃない」

「駐車場に着いたら、電話が鳴ったんで」

「まあ、まさしくグッドタイミングね」


 と目を細めた松宮さんへ、極上の笑みで、橘さんは返している。

 こうしてはたから見ても、美男美女のお似合いカップルだ。俺は一瞬にして蚊帳のソト。

 このツーショットだけは、目の当たりにしたくなかった。ソファーを立ち上がり、俺は勢いよく、松宮さんに頭を下げた。


「本当にありがとうございました。失礼します」


 カバンを肩にかけながら、病院の入り口にあった靴に履き替え、一目散に外の闇へ出た。

 橘さんが追ってくる気配がする。


「佑」

「あんたもありがと。じゃあね」

「ちょっと待ってよ。送るから」


 病院の駐車場で、いよいよ腕を取られた。


「いらない」

「自分がどういう目に遭ったか、きみが一番わかってんでしょ。なのに、一人で帰すわけにはいかないよ」


 少し、橘さんは表情を曇らせた。


「……わ、わかってるよ。でも、あんたの車はいらない」


 俺を訝しげに見ていた橘さんが、なにかを察したように手を離した。

 このイライラにやっと気づいたか。俺はそう思ったけれど、当の橘さんはニヤニヤしていて、ぼそっと呟いた。


「なるほど」


 足をすくわれ、いきなり体が横になった。橘さんのあごが目の前にある。

 結構な広さがある駐車場のど真ん中で、あろうことか、俺は「お姫さまだっこ」をされた。


「なにすんだよ!」

「きみが車はいらないって言うから。だったら俺でどうですか、みたいな?」

「はあ~?」


 俺は痛む腹もなんのその、手足をじたばたさせた。


「降ろせよ!」

「ちょ、佑。声が大きいって。警察にでも通報されたら、シャレになんないでしょ」


 俺を抱えたまま、橘さんが走る。逃げるようにして、建物のあいだの狭い通路へ入った。

 体が上下に振られ、俺はそこにある首にしがみついた。

 橘さんは通路を抜け、道路を横断し、ある建物へ入った。


「ここって……」


 見覚えのありまくる広いエントランス。昼間と同じで、郵便受けがずらりと並んでいる。


「はい、とうちゃーく」

「ていうか、俺は自分の家に帰りたいんだよ。なんで、あんたんとこなんだ」

「佑のとこも、ほとんど俺んちみたいになってんだから、うちだってきみんちでしょ」

「……わかったから。もう降ろせって」


 そこへ、オートロックの自動ドアが開いて、住人らしき人がやってきた。

 俺だけじゃなく、さすがの橘さんもフリーズ。

 戸惑いつつもガン見していくその人は、郵便受けから手紙を出すとそそくさと立ち去る。

 ようやく橘さんは俺を降ろした。


「悪ふざけがすぎたかなあ」

「ほんとだよ……」

「まあ、見られてしまったものはしょうがないってことで」


 橘さんが破顔う。

 目の下のしわとか、頬の上がり具合とか、口の端のくぼみとか。もう降参と言うしかないほど、こっちまで笑顔になってしまうじゃないか。

 俺は、いからせていた肩を正した。橘さんの後ろをおとなしく歩き、エレベーターへ乗った。

 五階に着くと、先に降りた橘さんの背中へ、あれだけ触れるのをためらっていた松宮さんのことを投げかけた。


「やたら近くじゃね」

「……ん?」

「だから、松宮センセんとこと、あんたんち。がっつり目と鼻の先じゃん」


 部屋の鍵を開けたあと、橘さんは一瞬だけ動きを止めた。玄関の明かりを点け、さもいま気がつきましたみたいな返事をする。


「ああー」

「あんた、松宮センセんとこに通ってんだろ? なんで言ってくれなかったのかわかんないけど、相当な頭痛持ちらしいじゃん」

「……」

「あの人、橘さんから、いつも草加せんべいをもらってるって言ってた。普通さ、医者と患者がそんなふうにする? 俺、かかりつけの医者に、物なんかあげたことないよ」

「ちょっ、ちょっと待って」


 橘さんは振り返ると、目をぱちぱちさせながら俺の腕を取った。だけども、隠しきれない笑みが口元辺りに出ている。


「いまの言葉……。俺の欲目を差し引いてもヤキモチみたいに聞こえるのは、気のせいかな」

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