まさか
一
妙な寝心地の悪さに目が覚めると、白々しい天井が見え、俺は顔をしかめた。
俺のいるベッドを取り囲むように布の壁がある。
なにかの匂いが鼻をついた。イソジン臭い。おずおずと上半身を起こし、俺は首を傾げた。
──病院?
「痛ぇ」
腹に痛みが走って体を折り曲げたとき、自分の身に起こったことを思い出した。
おそるおそるシャツを捲り、痛む箇所を確認する。
肌にはとくに変化がなく、ちょっとほっとなったけど、記憶の中でも、こんなに強く殴られたことはなかった。
ごわごわした布団を掴み、反対の手で腹を何度も撫でた。
一体、なんだっていうんだ。俺がなにしたっていうんだ。ああ、もう最悪。
カーテンを割ると、となりにも同じようなベッドがあった。
だれかが助けてくれて、ここへ運んでくれたのだろうか。
まず思い浮かんだのは橘さんだった。痛む腹をさすって、俺はスリッパをつっかけた。
めちゃくちゃ怖い目に遭ったというのに、橘さんが助けてくれたのかと思うと、うれしさを抑えられない自分がいる。
病室のドアを開けようとしたところで、その向こうにあるかもしれない姿を浮かべ、表情を作り直した。
しかし、それも徒労に終わった。ドアを開けた先には、だれの姿もなかった。
「橘さん?」
さほど距離のない廊下を進み、奥にある一角へと足を踏み入れた。
半円を描く壁に長いシートがくっついてある。
待合室だった。だが、ここも、だれもいない。
「……」
大きな病院かと思っていたけど、そうではないらしい。町のお医者さんて感じだ。とはいえ、俺のかかりつけのところとは違い、なにもかもが新しい感じで、きれいだった。
オシャレな歯医者みたいな雰囲気がある。
いまは無人の受付カウンターの向こうには、壁一面にカルテが並んでいる。
病院への入り口は二重扉になっていて、外に通じるほうのドアに、この病院の名前が書いてあった。
「まつみや……クリニック」
「真中くん!」
あの顔をよぎらせたとき、後ろから声が飛んできて、俺はパッと振り返った。
「ここにいたのね。よかった……」
松宮さんが安堵の表情で俺に近づく。白衣の胸元からは、きょうも谷間が覗いている。
医者とは思えぬご開帳ぶりに、つい目がいってしまった。
「ベッドから出られたなら大丈夫だと思うけど、念のため。気分が悪いってことはない?」
俺はただ首を横に振った。
いろんな驚きに喉が塞がれて、言葉なんか出なかった。
「あなたの身にあったことも覚えてる?」
そう言って、松宮さんは俺の顔を覗き込んだ。
俺と彼女は同じくらいの身長で、いまはサンダルの厚さのぶん、向こうが若干高い。
そんな彼女と視線を合わせた俺は、その胸を鷲掴みにしている橘さんを想像して、固く目を閉じた。
……ほんと、どうかしてると思う。
俺も、少し前までは男の夢だったそれも。
「あの。俺、もう大丈夫なんで。お世話になりました」
とにかく、一刻も早く帰りたかった。
病院の入り口へ向かい、しかし俺は、なにか忘れていることに気づいて動きを止めた。
「そうだ。カバン」
「待って、真中くん。橘くんに言われてるの。あなたを帰さないようにって」
「え?」
「気を失ったあなたをここに運んできたのは、彼なのよ」
「やっぱり──」
そうだったんだと、俺は呟いた。
「真中くんが気づいたら自分に電話してほしいって」
「べつに。ここにいないってことは、よほど忙しいからなんだろうし。わざわざ呼ばなくてもいいですよ。それよりも、俺のカバンは……」
「そうはいかないわ。橘くんだって、警察官としての責務があるもの」
「……せきむ」
「カバンなら私が取ってくるから。そこのソファーで待ってて」
松宮さんは、サンダルを鳴らしながら廊下の向こうへ消えた。白衣のポケットに手を入れたところも見えたから、橘さんに電話をしているのかもしれない。
俺は諦めて、ソファーに腰を落とした。
橘さんが来たら、とりあえずお礼は言おう。それから、大丈夫だと微笑んで、けさの「いってらっしゃいのキス」までのテンションとおんなじでいることだ。
それにしても、なんで橘さんはよりによって、松宮さんのところに俺を運んだんだろう。ほかの病院だってあったはずなのに。
そんな新たなイライラが芽生えたとき、あの人の声は飛んできた。
「佑!」
クリニックの扉を勢いよく開けた橘さんは、俺を見つけると、大股で近づいてきた。そして、ソファーに座ったままの俺の前で、膝を折った。
「気分は? 痛いところはない?」
「……うん」
「よかったあ」
座面に手をついて、橘さんは首をかがめた。
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