まさか



 妙な寝心地の悪さに目が覚めると、白々しい天井が見え、俺は顔をしかめた。

 俺のいるベッドを取り囲むように布の壁がある。

 なにかの匂いが鼻をついた。イソジン臭い。おずおずと上半身を起こし、俺は首を傾げた。

 ──病院?


「痛ぇ」


 腹に痛みが走って体を折り曲げたとき、自分の身に起こったことを思い出した。

 おそるおそるシャツを捲り、痛む箇所を確認する。

 肌にはとくに変化がなく、ちょっとほっとなったけど、記憶の中でも、こんなに強く殴られたことはなかった。

 ごわごわした布団を掴み、反対の手で腹を何度も撫でた。

 一体、なんだっていうんだ。俺がなにしたっていうんだ。ああ、もう最悪。

 カーテンを割ると、となりにも同じようなベッドがあった。

 だれかが助けてくれて、ここへ運んでくれたのだろうか。

 まず思い浮かんだのは橘さんだった。痛む腹をさすって、俺はスリッパをつっかけた。

 めちゃくちゃ怖い目に遭ったというのに、橘さんが助けてくれたのかと思うと、うれしさを抑えられない自分がいる。

 病室のドアを開けようとしたところで、その向こうにあるかもしれない姿を浮かべ、表情を作り直した。

 しかし、それも徒労に終わった。ドアを開けた先には、だれの姿もなかった。


「橘さん?」


 さほど距離のない廊下を進み、奥にある一角へと足を踏み入れた。

 半円を描く壁に長いシートがくっついてある。

 待合室だった。だが、ここも、だれもいない。


「……」


 大きな病院かと思っていたけど、そうではないらしい。町のお医者さんて感じだ。とはいえ、俺のかかりつけのところとは違い、なにもかもが新しい感じで、きれいだった。

 オシャレな歯医者みたいな雰囲気がある。

 いまは無人の受付カウンターの向こうには、壁一面にカルテが並んでいる。

 病院への入り口は二重扉になっていて、外に通じるほうのドアに、この病院の名前が書いてあった。


「まつみや……クリニック」

「真中くん!」


 あの顔をよぎらせたとき、後ろから声が飛んできて、俺はパッと振り返った。


「ここにいたのね。よかった……」


 松宮さんが安堵の表情で俺に近づく。白衣の胸元からは、きょうも谷間が覗いている。

 医者とは思えぬご開帳ぶりに、つい目がいってしまった。


「ベッドから出られたなら大丈夫だと思うけど、念のため。気分が悪いってことはない?」


 俺はただ首を横に振った。

 いろんな驚きに喉が塞がれて、言葉なんか出なかった。


「あなたの身にあったことも覚えてる?」


 そう言って、松宮さんは俺の顔を覗き込んだ。

 俺と彼女は同じくらいの身長で、いまはサンダルの厚さのぶん、向こうが若干高い。

 そんな彼女と視線を合わせた俺は、その胸を鷲掴みにしている橘さんを想像して、固く目を閉じた。

 ……ほんと、どうかしてると思う。

 俺も、少し前までは男の夢だったそれも。


「あの。俺、もう大丈夫なんで。お世話になりました」


 とにかく、一刻も早く帰りたかった。

 病院の入り口へ向かい、しかし俺は、なにか忘れていることに気づいて動きを止めた。


「そうだ。カバン」

「待って、真中くん。橘くんに言われてるの。あなたを帰さないようにって」

「え?」

「気を失ったあなたをここに運んできたのは、彼なのよ」

「やっぱり──」


 そうだったんだと、俺は呟いた。


「真中くんが気づいたら自分に電話してほしいって」

「べつに。ここにいないってことは、よほど忙しいからなんだろうし。わざわざ呼ばなくてもいいですよ。それよりも、俺のカバンは……」

「そうはいかないわ。橘くんだって、警察官としての責務があるもの」

「……せきむ」

「カバンなら私が取ってくるから。そこのソファーで待ってて」


 松宮さんは、サンダルを鳴らしながら廊下の向こうへ消えた。白衣のポケットに手を入れたところも見えたから、橘さんに電話をしているのかもしれない。

 俺は諦めて、ソファーに腰を落とした。

 橘さんが来たら、とりあえずお礼は言おう。それから、大丈夫だと微笑んで、けさの「いってらっしゃいのキス」までのテンションとおんなじでいることだ。

 それにしても、なんで橘さんはよりによって、松宮さんのところに俺を運んだんだろう。ほかの病院だってあったはずなのに。

 そんな新たなイライラが芽生えたとき、あの人の声は飛んできた。


「佑!」


 クリニックの扉を勢いよく開けた橘さんは、俺を見つけると、大股で近づいてきた。そして、ソファーに座ったままの俺の前で、膝を折った。


「気分は? 痛いところはない?」

「……うん」

「よかったあ」


 座面に手をついて、橘さんは首をかがめた。

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