三
一体、あの人はなんなんだろう。なにがしたいんだろう。
おばあさんに傘を貸したことも、ひったくりの一件も、あの親子だってそうだ。
善行は、黙っていることこそが男の美学とでも言いたいんだろうか。
ベラベラ喋るのは余計なことばっかりで、自分にプラスになるようなことは、なにひとつ言わないんだ。
だけど……不思議だ。
ほかのヤツだったら鼻につくことも、あの人だと格好いいと思えてしまう。
俺がどっぷりはまりこんでいるからなのか、橘さんの人徳というものなのか。いとおしいとさえ思えてきてしまう。
なにより、いますぐ橘さんに会いたいと思った。
その夜。
橘さんのせいで一日中フワフワしていた俺は、いまの自分を象徴するかのようなおかしな夢を見た。
部屋で普通に寝ていたら、橘さんがいきなりベッドに乗っかってきて、俺の体をまさぐるんだ。
現実の自分と、夢の自分の思考が交錯している。なにがなんだかわからないけど、結局は許しちゃってるって感じだ。
肌を滑る舌の感覚が気持ちイイ。橘さんの名前を呼んで視線を下に向けたら、俺の胸に膨らみがあった。それをめちゃくちゃ揉まれる。
あえいでいるうちに、想像どおりのものを体の奥に突っ込まれた。
痛かったけど、あの人も気持ちよさそうな声を出して突き上げるから、いつの間にかイイ、イイって繰り返し叫んでいた。
二人で一緒に達したところで、目が覚めた。
カーテンから漏れる春の日差しがやけにまぶしい。
「マジかよ……」
体を起こすと同時に、下着を確認した俺は、がっくりと首を垂れた。
「相当ヤバいかも……俺」
下着を新しいのに替え、汚したほうを洗面所で洗う。
鏡を見ると、そこには、ヒゲこそ薄いものの、男にしか見えない顔がある。洗濯機に下着を投げた俺は、寝ぐせを直してから、自分の顔を撫でた。
夢はおのれの願望を映す、とかいうのをよく聞く。
本当のところ、あの人がどういうつもりで俺と接しているのかはわからない。
好意は……持たれていると思う。
でも、あんなことやこんなことの想像をしているはずがない。
なのに俺は、あの夢のようにされたいと思っている……かもしれない。
大きなため息を吐いたとき、部屋の呼び鈴が鳴った。
早くしろと言わんばかりの連打。指を叩きつけるような、こんなはた迷惑な呼び出し方をするのは一人しかいない。
俺のオヤジだ。
「もう~。いっつもいっつも。うるさいからやめろって……うわっ」
ドアを開けた途端、俺はだれかに抱きつかれた。
鼻につくほど強烈なタバコの匂い。
うちのオヤジは、かなりの親バカだけど、さすがに抱きついたりはしない。だれなのかと思いながら、その人の服を掴んで顔をずらした。
すると、今度は肩を掴まれて、ぐいっと離された。
橘さんの顔が視界いっぱいに広がる。
「佑、ただいま。いま帰ってきたよ」
「……あ、ああ。おかえり」
突然の登場に、びっくりしたを一周回って、普通に返してしまった。それでも突っ立ったまんまでいたら、橘さんが俺の顔を覗き込んできた。
「どうした?」
「え? ……なにが」
「てっきり、ここはあんたの家じゃない! って、ものすごい剣幕でツッコむと思ったから」
橘さんは言いながら笑って、ドアを閉めた。そして、当たり前のように部屋へ上がってきた。
「晴海、来たよね?」
「──え?」
「蔦屋敷署の晴海。服、持ってきてくれたでしょ」
橘さんに見つめられ、俺はつい視線を外してしまった。
ヤバい。あの顔をまともに見られない。
「きのう来た。あんたの服も渡しといたから」
リビングへ入りかけた橘さんは、頭を屈めたまま、ぴたっと足を止めた。
その背中にぶつかる寸前で俺も止まった。
「なんだよ」
「いや。きみの様子がおかしいから、まずいときに来たのかな……と」
「……」
「だれかと一緒なのかと思ったんだ。……たとえば、女の子とか」
橘さんは、ちょっと怒っているような声で言ったあと、周囲を見回した。
「いま起きたばっかなんだから、だれもいねえよ」
目の前に立ちはだかっている大きな背中。俺は一瞬ためらったけれど、ここにいられても邪魔になるだけだから、思い切って押した。
橘さんは頭を掻きながらリビングへ入り、どかっとベッドに腰を下ろした。
その瞬間、ゆうべ見た夢がフラッシュバックする。
きょうの橘さんは出張帰りだからか、シックなスーツ姿で、いつもと違う雰囲気。それを意識し始めたら、胸の奥が熱くなってきて、手にも汗をかきそうだった。
シャツの裾に手のひらをこすりつけ、俺はぼそっと呟く。
「ていうか、俺、女の子とはもうつき合えないかもしれない」
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