上り坂



 それから三日後の朝。

 きょうは珍しく、早い時間にバイトが入っている。起きられるか心配だったけど、遅刻せず、なんとか出勤できた。


『いまだ行方つかめず』


 コンビニの事務所のデスク上に、読みかけの新聞があった。その四コマ漫画の横にある小さな見出し。

 きょうのワイドショーでも、ちらっとやっていた事件。連続放火事件で任意同行中だった神崎という男が、隙を見て逃げたというものだ。

 三日前、このニュースがテレビで流れ、それをうちで一緒に見ていた橘さんが、血相を変えたっていう事件でもある。


「かんざき……か」


 警察官て、ほんと大変だと思った。

 きっと、東京で起こった事件でも、地方の一署だからといって、他人ごとみたいにしてちゃいけないんだ。

 警察の仕組みは、俺にはよくわからないけど、たぶん、どの地方で起こった事件も一丸となって取り組まなきゃで、対岸の火事だと気を緩めてちゃいけないってことなんだと思う。

 実際のところ、橘さんからぜんぜん音沙汰ない。うちに残されている服やら、俺の貸した服やらがそのままで、なんの連絡もないんだ。

 あの夜、橘さんが外に出たときも、まだ雨が降っていた。おそらく、濡れて帰ったんだと思う。

 だから、風邪を引かなかったかと心配だし、声も聞きたいなあと思っちゃってる。

 橘さんの笑顔を思い出し、俺はため息をもらした。とりあえず、四コマ漫画には目を通す。


「やあ、真中くん」

「あ、おはようございます」


 そこへ、店長がやってきた。

 慌てて、新聞へと倒していた上体を起こし、俺は腰を折った。


「いやあ、きょうは無理言って悪かったね」

「いえ。ぜんぜん大丈夫ですよ」


 交代の時間にはまだ早い。

 椅子に腰かける店長を見やってから、俺は腕時計を確認した。


「しかし、警察もあれだねえ。また、いろいろ叩かれるねえ」

「……え?」

「この事件だよ。この事件」


 店長の太い指があの記事をトントン叩いた。


「周りには大勢の警察官がいたはずなんだよ。それなのに、まんまと逃げられちゃあ、この犯人ばかりを責められないなあ」

「……」

「逃走を企てるなんて正常なやつの考えることじゃないから、これからなにしでかすか、わからんねえ」


 おー怖い怖い。

 と、店長はつけ加えたけれど、その顔に本気の危機感は見られない。

 当たり前か。

 東京は、ここからずっと離れている。俺たちには、あまり現実味のない話だった。

 俺なんかは、神崎がやった放火さえ、詳しい経緯を知らない。

 ただ、警察をバカにしたような店長の言い方には少しカチンときた。最近の俺は、警官イコール橘さんになっているから、なおさらだ。

 眼下の記事を、もう一度見た。


「店長はその事件を知ってるんですか?」

「連続放火のこと?」

「俺、あんまり記憶になくて……」

「いや、僕は覚えてるよ。たしか、三、四ヶ月ぐらい前だったかな。東京辺りで、火事が続いてるみたいなニュースがあってさ。不審火の可能性もあるって」

「真中くん!」


 店のほうから大きな声が飛んできた。

 俺は腕時計を確認して、慌てて事務所をあとにした。店長と話し込んでいるあいだに、いつのまにか交代の時間になっていた。

 急いでレジカウンターへと向かう。

 それからの仕事中も、橘さんのことばかり考えていた。

 忙しかったら迷惑になるだけだと思って、なかなか連絡できないでいたけど、それもそろそろ限界だ。

 バイトが終わり、俺はまっすぐ帰宅すると、取りに来る気配のない座卓の上のシャツとジーンズを目の前にして携帯を開いた。

 しかし、何度かけても、最後には留守電に変わる。

 仕方なく、最後と決めた電話のときにメッセージを残しておいた。

 でも……やっぱりあの人の声が聞きたかった。

 何度目かわからないため息をついて、橘さんのシャツとジーンズへ顔を突っ伏した。

 うちで使ってる洗剤の匂いがする。その向こうに、かすかにタバコの匂いもあった。

 あの人……タバコ吸うんだっけ?

 まあ、警察署も空気が悪そうだったし、たとえ本人が吸わなくても、匂いが服に染みついてそうだ。

 俺は、着ているシャツを掴んで、ふと、橘さんのものすごい腹筋をよぎらせた。申しわけ程度にある、自分の腹筋を撫でてみる。

 人間、本気で鍛えれば、あんなふうになれるもんなんだ。

 改めて感心した。

 そういえば、こないだ見たAVの男優も、ものすごい腹筋だった。アソコも相当デカかった。

 女優がよがり狂っていたし。

 それを思い出した途端、俺の興奮は収まらなくなった。

 久しぶりだったせいもあるのかもしれない。

 それよりもヤバいのは、その男優に橘さんを重ね合わせ、マグロ状態だった女優を、自分とシンクロさせていた。

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