四
「ほんと、ごめん。電話がきてたって、たしかに言われてたんだけど、まさか、本当にきみだとは思わなくて」
「うん。だから、もういいって」
俺は、水にさらしていた玉ねぎを一つ取って、橘さんの目の前に出した。
「その代わり。はい、これ切って」
「え?」
「俺、玉ねぎ切るの苦手なんだよね」
橘さんはぎょっとなった感じで、目を大きくしてから手を洗い、玉ねぎを切り始めた。
ちょっとした意地悪のつもりだった。けれど、その包丁さばきは、俺の立場を一気に崩していくものだった。
かなり手慣れている。あっという間に、しかも美しく、玉ねぎは等間隔に切られていった。
「……なにが、ヨメだ」
「ああ、そうだ。カレーにはね、オイスターソースを入れると、また一段と旨くなるよ」
「ていうか、カレーに入れる玉ねぎなのに、なんでみじん切りだよ。ヨメはあんたが行け!」
橘さんは、俺の怒声を交わすようにして、また洗面所へ消えた。
やがて、ドライヤーの音がしてくる。
残念なことに、うちにはウスターソースしかなく、だれかさん直伝の隠し味はならなかった。
でも、俺のいつものカレーだって、それなりに旨いはずだ。
いや、まずくはない、はずだ。
どこか納得いかない感じに、ムスッとなりつつも、できあがったカレーを二つの皿に盛りつけた。それをリビングの座卓にいる橘さんへ持っていこうとして、俺は足を止めた。
ワンルームの狭いリビングには、ベッドもある。座卓の前であぐらをかいていた橘さんは、そこに背中をもたせかけ、天井を見つめていた。
頭を布団の上にのっけた。
それから、両手で髪を掻き上げ、深いため息を吐いた。天井に向けている視線はどこか力がない。
そういえば、ここんところ働きづめで休みがなかったって、橘さんは言ってたっけ。松宮さんも、今回はそんなにひどくはないものの、事件を解決したあとに、いつも頭痛に襲われると言っていた。
「カレー、おまちどおさまです」
「おおっ」
なるべく明るくと努めた俺の声に、橘さんは肩を弾けさせ、上体を起こした。
さっと、いつもの顔つきに変える。俺の知っている、それに。
「いっただきます」
嬉々として手を合わせ、橘さんはスプーンをくわえたまま、長い髪を後ろで結んだ。
よほどお腹が空いていたのか、半分くらいを一気に食べてから、ようやく旨いの言葉を出した。
「そうだ。橘さん、昼間はお手柄だったね」
「ん? なにが?」
「なにが、って。ひったくり犯を捕まえたことだよ」
スプーンを持つ手を止め、橘さんは首を横に振った。
そのお手柄について、なにか自慢するわけでもなく、むしろ、あまり触れられたくないといった感じで、再びカレーを食べ始めた。
「じゃあさ、朝から気になってたことがあるんだけど、訊いてもいい?」
「なに?」
「橘さん、俺んち知ってたみたいじゃん。なんで?」
カレーから目を離し、橘さんは顔を上げた。水を一気に飲み干す。
腕まで組んで、なにを考え込んでいるのか知らないけど、スプーンは絶対に放さないんだ、この人。
「もしかして、俺のことつけてたとか? 働きづめで忙しかったなんて言っときながら」
「まさか。そんな、ストーカーみたいなことは、決してしてない」
橘さんがいきなり立ち上がった。カーテンの引いてある窓に背中を張りつけ、息をひそめる。ちらっとカーテンをどけ、恐い表情で窓の向こうを見た。
「な、なんだよ。どうしたんだよ?」
俺もつられて立ち上がり、橘さんのそばに身を寄せた。
「外にだれかいんの?」
「いや、そうじゃなくて。探偵みたくカッコよく、まんなかゆうさんちを調査中、を再現中」
「は?」
「決してストーカーじゃないよって話。当社比五割増しでお送りしてます」
……五割増しだろうが、八割増しだろうが、ちっとも格好よくない。だって、ピチピチの服だよ。つんつるてんのズボンだよ。
橘さんのシャツを引っ張って、割れまくりの腹は、せめて隠してやった。
「きしょい腹が見えてるから。つか、あんた。結局はつけてたんじゃねえか」
「違うって。ほら、コンビニで涙の再会を果たした日、じつは俺、きみの家も調べて行ってたんだよ」
「課長さんに言われて、俺のことを探してたってやつ?」
「そう。……あ」
橘さんは短く声をもらし、自分がずっとスプーンを持っていたことにようやく気づいた。ちょっと恥ずかしそうにして、まだカレーが残っている皿へ戻した。
「あんたさあ。ほんと、いい年してガキみたいだよね」
「俺の腹ってそんなに気持ち悪い? つうか、どんなふうにきしょいの? ねえねえ」
橘さんはシャツをめくると、お腹を撫でながら迫ってきた。
「ばか、こっちくんな。ストーカーの次は、セクハラか」
「ええー」
拒否すれば拒否するほど、面白がって近づいてくる。
座卓を中心に、ひとしきり追いかけっこをしたあと、後ろからがっちりと抱きしめられた。
「佑」
「なにすんだよ、離れろって!」
そこへ、つけっぱなしのテレビから、なにかのニュースを報せるアナウンサーの声がした。
俺に巻きつけていた腕をほどき、橘さんは真剣にそれを見ていた。番組と番組のあいだにある短いニュース番組だ。
「かんざき……」
「え?」
なにかアンビリーバボーなものを目にしたって感じで、橘さんがじっとテレビを見下ろしている。
そのとき、座卓の上にあった見慣れない携帯電話が震えた。
それまでのおバカさんが一変、きょうの昼間みたいに険しい表情になった橘さんが電話に出た。俺に聞かれたらまずいのか、台所のほうへと消えて、小声で話し始めている。
テレビは、もうべつの番組が始まっていた。
橘さんが熱心に見ていたニュースは、たしか、東京で、連続放火事件で任意同行中だった男が逃げたというものだった。
台所に視線をやると、橘さんは、なぜかカレー鍋を覗き込んでいて、おたまをかき回しながら喋っていた。
「ごめん、佑。ちょっと急用ができたから帰るね」
携帯を閉じ、そう残して玄関へと向かう。
でも、靴を履く前になにかに気づいて、橘さんはこっちへ戻ってきた。
「なにかあった?」
訊いたところで、ちゃんと説明はしてくれないだろうとわかっていたけど、言わずにはいられなかった。
案の定、橘さんからは、なにも返ってこない。皿にわずか残っているカレーをかっ込んでいた。
「べつに、残して帰ればいいのに」
「へっかくつくってもらっはんだ。もっはいない」
せっかく作ってもらったんだ。もったいない。と言ったらしい。
それが理解できたころ、ごちそうさまと手を合わせて、橘さんは部屋をあとにしていった。
外では、まだ雨の音がしている。
橘さんが置き土産にしていった、つっぱり棒のシャツとジーンズを、俺は見つめた。
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