「ほんと、ごめん。電話がきてたって、たしかに言われてたんだけど、まさか、本当にきみだとは思わなくて」

「うん。だから、もういいって」


 俺は、水にさらしていた玉ねぎを一つ取って、橘さんの目の前に出した。


「その代わり。はい、これ切って」

「え?」

「俺、玉ねぎ切るの苦手なんだよね」


 橘さんはぎょっとなった感じで、目を大きくしてから手を洗い、玉ねぎを切り始めた。

 ちょっとした意地悪のつもりだった。けれど、その包丁さばきは、俺の立場を一気に崩していくものだった。

 かなり手慣れている。あっという間に、しかも美しく、玉ねぎは等間隔に切られていった。


「……なにが、ヨメだ」

「ああ、そうだ。カレーにはね、オイスターソースを入れると、また一段と旨くなるよ」

「ていうか、カレーに入れる玉ねぎなのに、なんでみじん切りだよ。ヨメはあんたが行け!」


 橘さんは、俺の怒声を交わすようにして、また洗面所へ消えた。

 やがて、ドライヤーの音がしてくる。

 残念なことに、うちにはウスターソースしかなく、だれかさん直伝の隠し味はならなかった。

 でも、俺のいつものカレーだって、それなりに旨いはずだ。

 いや、まずくはない、はずだ。

 どこか納得いかない感じに、ムスッとなりつつも、できあがったカレーを二つの皿に盛りつけた。それをリビングの座卓にいる橘さんへ持っていこうとして、俺は足を止めた。

 ワンルームの狭いリビングには、ベッドもある。座卓の前であぐらをかいていた橘さんは、そこに背中をもたせかけ、天井を見つめていた。

 頭を布団の上にのっけた。

 それから、両手で髪を掻き上げ、深いため息を吐いた。天井に向けている視線はどこか力がない。

 そういえば、ここんところ働きづめで休みがなかったって、橘さんは言ってたっけ。松宮さんも、今回はそんなにひどくはないものの、事件を解決したあとに、いつも頭痛に襲われると言っていた。


「カレー、おまちどおさまです」

「おおっ」


 なるべく明るくと努めた俺の声に、橘さんは肩を弾けさせ、上体を起こした。

 さっと、いつもの顔つきに変える。俺の知っている、それに。


「いっただきます」


 嬉々として手を合わせ、橘さんはスプーンをくわえたまま、長い髪を後ろで結んだ。

 よほどお腹が空いていたのか、半分くらいを一気に食べてから、ようやく旨いの言葉を出した。


「そうだ。橘さん、昼間はお手柄だったね」

「ん? なにが?」

「なにが、って。ひったくり犯を捕まえたことだよ」


 スプーンを持つ手を止め、橘さんは首を横に振った。

 そのお手柄について、なにか自慢するわけでもなく、むしろ、あまり触れられたくないといった感じで、再びカレーを食べ始めた。


「じゃあさ、朝から気になってたことがあるんだけど、訊いてもいい?」

「なに?」

「橘さん、俺んち知ってたみたいじゃん。なんで?」


 カレーから目を離し、橘さんは顔を上げた。水を一気に飲み干す。

 腕まで組んで、なにを考え込んでいるのか知らないけど、スプーンは絶対に放さないんだ、この人。


「もしかして、俺のことつけてたとか? 働きづめで忙しかったなんて言っときながら」

「まさか。そんな、ストーカーみたいなことは、決してしてない」


 橘さんがいきなり立ち上がった。カーテンの引いてある窓に背中を張りつけ、息をひそめる。ちらっとカーテンをどけ、恐い表情で窓の向こうを見た。


「な、なんだよ。どうしたんだよ?」


 俺もつられて立ち上がり、橘さんのそばに身を寄せた。


「外にだれかいんの?」

「いや、そうじゃなくて。探偵みたくカッコよく、まんなかゆうさんちを調査中、を再現中」

「は?」

「決してストーカーじゃないよって話。当社比五割増しでお送りしてます」


 ……五割増しだろうが、八割増しだろうが、ちっとも格好よくない。だって、ピチピチの服だよ。つんつるてんのズボンだよ。

 橘さんのシャツを引っ張って、割れまくりの腹は、せめて隠してやった。


「きしょい腹が見えてるから。つか、あんた。結局はつけてたんじゃねえか」

「違うって。ほら、コンビニで涙の再会を果たした日、じつは俺、きみの家も調べて行ってたんだよ」

「課長さんに言われて、俺のことを探してたってやつ?」

「そう。……あ」


 橘さんは短く声をもらし、自分がずっとスプーンを持っていたことにようやく気づいた。ちょっと恥ずかしそうにして、まだカレーが残っている皿へ戻した。


「あんたさあ。ほんと、いい年してガキみたいだよね」

「俺の腹ってそんなに気持ち悪い? つうか、どんなふうにきしょいの? ねえねえ」


 橘さんはシャツをめくると、お腹を撫でながら迫ってきた。


「ばか、こっちくんな。ストーカーの次は、セクハラか」

「ええー」


 拒否すれば拒否するほど、面白がって近づいてくる。

 座卓を中心に、ひとしきり追いかけっこをしたあと、後ろからがっちりと抱きしめられた。


「佑」

「なにすんだよ、離れろって!」


 そこへ、つけっぱなしのテレビから、なにかのニュースを報せるアナウンサーの声がした。

 俺に巻きつけていた腕をほどき、橘さんは真剣にそれを見ていた。番組と番組のあいだにある短いニュース番組だ。


「かんざき……」

「え?」


 なにかアンビリーバボーなものを目にしたって感じで、橘さんがじっとテレビを見下ろしている。

 そのとき、座卓の上にあった見慣れない携帯電話が震えた。

 それまでのおバカさんが一変、きょうの昼間みたいに険しい表情になった橘さんが電話に出た。俺に聞かれたらまずいのか、台所のほうへと消えて、小声で話し始めている。

 テレビは、もうべつの番組が始まっていた。

 橘さんが熱心に見ていたニュースは、たしか、東京で、連続放火事件で任意同行中だった男が逃げたというものだった。

 台所に視線をやると、橘さんは、なぜかカレー鍋を覗き込んでいて、おたまをかき回しながら喋っていた。


「ごめん、佑。ちょっと急用ができたから帰るね」


 携帯を閉じ、そう残して玄関へと向かう。

 でも、靴を履く前になにかに気づいて、橘さんはこっちへ戻ってきた。


「なにかあった?」


 訊いたところで、ちゃんと説明はしてくれないだろうとわかっていたけど、言わずにはいられなかった。

 案の定、橘さんからは、なにも返ってこない。皿にわずか残っているカレーをかっ込んでいた。


「べつに、残して帰ればいいのに」

「へっかくつくってもらっはんだ。もっはいない」


 せっかく作ってもらったんだ。もったいない。と言ったらしい。

 それが理解できたころ、ごちそうさまと手を合わせて、橘さんは部屋をあとにしていった。

 外では、まだ雨の音がしている。

 橘さんが置き土産にしていった、つっぱり棒のシャツとジーンズを、俺は見つめた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る