「それとも車で来たの?」


 と、口にしてから気づいた。この濡れ方は、近くに車を停めて、そこからやってきましたって感じじゃない。

 橘さんも首を横に振っている。


「いや、走ってきた」

「は、走って? って、どこから」

「家から」


 俺は目をぱちくりさせた。

 もしや、橘さんの家はうちの近くかと思ってそれを聞いたら、また首を横に振った。


「うちは署のほうなんだ」

「ぜんぜん遠いじゃん!」

「けど、ほら、俺が路駐するわけにもいかないから」

「それでも、傘は持って来れんだろ」


 呆れ果てるのも通り越して、もう笑うしかない。思い切りため息を吐いたら、橘さんがド派手なくしゃみをした。

 かなりの距離を走ってきたなら、雨だけじゃなく、汗でも濡れているのかもしれない。


「そのままじゃあ、風邪引くから。中に入って」


 ドアを開け、橘さんの大きな体を玄関へ押し込む。傘を閉じ、俺は靴を脱いだ。


「え、俺をまんなかクンちに上げてくれんの?」

「濡れたまま帰すわけにもいかないでしょうが」

「ありがとう!」

「つうか、そのつもりで来たんじゃないの」


 どうやらズバリだったみたいで、橘さんはそっぽを向いた。


「いやさ、まんなかクン。俺はべつに──」

「佑」

「え?」

「俺の名前。まんなかじゃなくて、これからはそう呼ぶこと。じゃなきゃ、いますぐ追い返すよ」


 橘さんは驚いたように目を見開いてから、柔らかく微笑んだ。

 そのあと、ぶるぶるっと体を震わせて、足踏みをし始めた。


「タオル、すぐ持ってくるから」


 奥の部屋からバスタオルを取って、玄関へと戻った俺は、橘さんを見て、思わず声を張り上げた。


「なんで、そこで脱いでんだよ!」

「濡れてるのをいつまでも着てたらマズいかなと──」


 持ってきたバスタオルを、玄関で半裸になっている橘さんへ投げつける。思っていた以上に筋肉質な腕を掴んで、脱衣場へ押し込めた。

 板が反るくらい、俺は激しくドアを閉めてやった。


「さっさとシャワー浴びてこい」

「ていうかさ、まだ上しか脱いでないんだから、そんなに目くじらたてなくても……」

「うるさい!」


 明らかに変な動揺をしている自分をごまかすように、大声で返す。

 それから、クローゼットを引っ掻き回して選んだシャツとスラックスを、脱衣場の中へと放り投げた。





「あのー。このシャツとズボン、かなりすごいことになってるんですけど」


 シャワーを浴び終えた橘さんが脱衣場から出てきた。ピチピチのシャツと、つんつるてんのズボンという格好だ。

 橘さんと俺は、服のサイズがかなり違うと思っていたから、伸び縮みのするやつを選んだんだけど、それも危うい。

 というか、ちょっと間抜けなビジュアル。笑いをこらえるのに苦労した。


「仕方ないじゃん。あんたがデカすぎなんだから」


 俺は、橘さんが脱いだシャツとジーンズをハンガーにかけ、部屋の角にあるつっぱり棒に下げた。少しでも早く乾くように、エアコンの温度を上げた。


「へえ。料理するんだね」


 今夜のメニューはカレー。台所で準備に取りかかっていたら、シャンプーの香りを漂わせた橘さんが、手元を覗いてきた。

 その生乾きの髪には、バスタオルがかかっている。


「まあね。料理は好きだよ。節約にもなるし」

「ほう」

「そういえば橘さん。俺のカレーごちそうしてもいいけど、一人前までだからね」

「ええ、ええ。わかってますとも」


 と言いつつ橘さんは、どこか残念そうな表情をした。

 構わず野菜を切り始めると、俺が料理をするのがよほど珍しかったのか、橘さんは、まな板の状況をずっと見ていた。

 はっきり言って邪魔。しかも、なにに納得しているのか、顎に手をやって、何度も頷いている。


「いつでも嫁にいけるレベルだ」


 そのサムい冗談で、俺は、ゆうべの電話のことを思い出した。

 触れるのはよそうと思っていたのに、このときばかりは口を衝いて出てきた。


「あんたさ、どうでもいいけど、携帯くらい、彼女に出させないで自分で出ろよな。いつでも電話くださいって番号渡しといて、折り返しもしないなんて、意味わかんねえし」

「は?」

「は、じゃねえよ。あんたが携帯の番号くれたから、ゆうべ電話したんだろ。そしたら、女の人が出た」


 俺は言いながら、たかが電話一本で、どうしてこうもむきになってしまうのか自分がわからなくなって、ニンジンを切りまくっていた。


「ああ、そうか。ごめん。番号のこと、すっかり忘れてた……。電話くれたんだね。ありがとう」


 橘さんは、本当にすまなそうに頭をさげた。


「べ、べつに。謝らなくてもいいよ」

「妹なんだ」

「え?」

「ゆうべの電話に出たの。きのう家に来てたから」

「……」

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