三
「それとも車で来たの?」
と、口にしてから気づいた。この濡れ方は、近くに車を停めて、そこからやってきましたって感じじゃない。
橘さんも首を横に振っている。
「いや、走ってきた」
「は、走って? って、どこから」
「家から」
俺は目をぱちくりさせた。
もしや、橘さんの家はうちの近くかと思ってそれを聞いたら、また首を横に振った。
「うちは署のほうなんだ」
「ぜんぜん遠いじゃん!」
「けど、ほら、俺が路駐するわけにもいかないから」
「それでも、傘は持って来れんだろ」
呆れ果てるのも通り越して、もう笑うしかない。思い切りため息を吐いたら、橘さんがド派手なくしゃみをした。
かなりの距離を走ってきたなら、雨だけじゃなく、汗でも濡れているのかもしれない。
「そのままじゃあ、風邪引くから。中に入って」
ドアを開け、橘さんの大きな体を玄関へ押し込む。傘を閉じ、俺は靴を脱いだ。
「え、俺をまんなかクンちに上げてくれんの?」
「濡れたまま帰すわけにもいかないでしょうが」
「ありがとう!」
「つうか、そのつもりで来たんじゃないの」
どうやらズバリだったみたいで、橘さんはそっぽを向いた。
「いやさ、まんなかクン。俺はべつに──」
「佑」
「え?」
「俺の名前。まんなかじゃなくて、これからはそう呼ぶこと。じゃなきゃ、いますぐ追い返すよ」
橘さんは驚いたように目を見開いてから、柔らかく微笑んだ。
そのあと、ぶるぶるっと体を震わせて、足踏みをし始めた。
「タオル、すぐ持ってくるから」
奥の部屋からバスタオルを取って、玄関へと戻った俺は、橘さんを見て、思わず声を張り上げた。
「なんで、そこで脱いでんだよ!」
「濡れてるのをいつまでも着てたらマズいかなと──」
持ってきたバスタオルを、玄関で半裸になっている橘さんへ投げつける。思っていた以上に筋肉質な腕を掴んで、脱衣場へ押し込めた。
板が反るくらい、俺は激しくドアを閉めてやった。
「さっさとシャワー浴びてこい」
「ていうかさ、まだ上しか脱いでないんだから、そんなに目くじらたてなくても……」
「うるさい!」
明らかに変な動揺をしている自分をごまかすように、大声で返す。
それから、クローゼットを引っ掻き回して選んだシャツとスラックスを、脱衣場の中へと放り投げた。
「あのー。このシャツとズボン、かなりすごいことになってるんですけど」
シャワーを浴び終えた橘さんが脱衣場から出てきた。ピチピチのシャツと、つんつるてんのズボンという格好だ。
橘さんと俺は、服のサイズがかなり違うと思っていたから、伸び縮みのするやつを選んだんだけど、それも危うい。
というか、ちょっと間抜けなビジュアル。笑いをこらえるのに苦労した。
「仕方ないじゃん。あんたがデカすぎなんだから」
俺は、橘さんが脱いだシャツとジーンズをハンガーにかけ、部屋の角にあるつっぱり棒に下げた。少しでも早く乾くように、エアコンの温度を上げた。
「へえ。料理するんだね」
今夜のメニューはカレー。台所で準備に取りかかっていたら、シャンプーの香りを漂わせた橘さんが、手元を覗いてきた。
その生乾きの髪には、バスタオルがかかっている。
「まあね。料理は好きだよ。節約にもなるし」
「ほう」
「そういえば橘さん。俺のカレーごちそうしてもいいけど、一人前までだからね」
「ええ、ええ。わかってますとも」
と言いつつ橘さんは、どこか残念そうな表情をした。
構わず野菜を切り始めると、俺が料理をするのがよほど珍しかったのか、橘さんは、まな板の状況をずっと見ていた。
はっきり言って邪魔。しかも、なにに納得しているのか、顎に手をやって、何度も頷いている。
「いつでも嫁にいけるレベルだ」
そのサムい冗談で、俺は、ゆうべの電話のことを思い出した。
触れるのはよそうと思っていたのに、このときばかりは口を衝いて出てきた。
「あんたさ、どうでもいいけど、携帯くらい、彼女に出させないで自分で出ろよな。いつでも電話くださいって番号渡しといて、折り返しもしないなんて、意味わかんねえし」
「は?」
「は、じゃねえよ。あんたが携帯の番号くれたから、ゆうべ電話したんだろ。そしたら、女の人が出た」
俺は言いながら、たかが電話一本で、どうしてこうもむきになってしまうのか自分がわからなくなって、ニンジンを切りまくっていた。
「ああ、そうか。ごめん。番号のこと、すっかり忘れてた……。電話くれたんだね。ありがとう」
橘さんは、本当にすまなそうに頭をさげた。
「べ、べつに。謝らなくてもいいよ」
「妹なんだ」
「え?」
「ゆうべの電話に出たの。きのう家に来てたから」
「……」
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