二
「そういえば、あの石段て、俺とまんなかクンが出会った記念の場所なんだよね」
「なにそれ」
俺は苦笑をのっけて返した。
大通りに出ると、歩道を並んで歩いた。
この通り沿いにバイト先のコンビニがあるのだ。
「ねえ、まんなかクン。記念の石段に、なんか名前つけようよ」
「なに、その女子高生的発想。キモい」
「うーん、なにがいいかなあ。そうだ」
俺は肩をすくめた。……また人の話を聞いてないし。
でも、せっかくだから最後まで聞いてやることにする。笑えもしない、とんでもない名前だとは思うけど。
ところが、橘さんはすでに足を止めていて、険しい表情でどこかを見つめていた。
「急にどうした?」
視線の行き先を確認していたら、橘さんがいきなり走り出した。ガードレールをひらりと飛び越え、車に気をつけながら道路を器用に渡っていく。
そうして、四車線を挟んだ向こうの歩道に着いた橘さんは、すれ違っていく自転車へ、なにかを叫んでいた。
俺は息を呑み、ガードレールから前のめりになってそれを見つめた。
自転車がスピードを上げた。
すかさず橘さんが追う。自転車に追いつくと、ハンドルを掴んだ。
橘さんは、ものすごく抵抗している自転車の人を地面に伏せさせ、背中のところで両手をひねり上げた。その手首に、ジーンズのバックポケットから出した手錠をはめる。
なにが起こったのかわからないまま、俺は首を伸ばして、その一部始終を伺っていた。
たまに車高のあるトラックが来て、橘さんの姿を隠す。そうなったら、見える位置まで移動して、向こうの様子をずっと伺っていた。
やがて、女の人がひとり、橘さんのもとにやってきた。
地面に伏せさせている男の手を掴んだまま、携帯でなにかをしゃべっていた橘さんは、顔を上げ、その人とも話し始めた。
はたと腕時計に視線を落とす。バイトの時間が迫っていた。
向こうのことも気がかりだけど、バイトを遅刻するわけにもいかない。
しぶしぶ場をあとにした俺の背後で、けたたましいサイレンの音がした。
「佑、聞いた? 昼間、そこの歩道でひったくり犯が捕まったらしいよ」
バイト終わり、ロッカーで帰り支度をしていた俺は、入れ替わりにやってきた先輩の声で振り返った。
「ひったくり?」
「そ。警察官がたまたまその辺歩いてたらしくて、現行犯逮捕ってやつ。ある意味ヒサンだよな」
「……」
その警察官が橘さんだと気づくのに、そう時間はかからなかった。もしかしたら、そういうことだったんじゃないかって、仕事中もずっと考えていたからだ。
俺たちが出会ったあの石段でのことがよみがえる。
「最近、不景気だのなんだので、ここらへんでもひったくりとか増えてるらしいから」
俺にはもはや、先輩のその声は届いていなかった。挨拶もそこそこにコンビニをあとにする。
それから、夕飯の買い物にとスーパーへ寄った。
そこでも、帰り道でも、俺の頭の中では、昼間のシーンがエンドレスで流れている。
ガードレールを飛び越え、刑事ドラマさながら、危険を省みず車道を突っ切っていく。なおも逃げようとする男をいとも簡単に捕まえ、現行犯逮捕。
とにかく、めちゃくちゃすごかった。
そのときの最初から最後を、バカみたいに繰り返すたび、胸のドキドキは増すばかりだ。
先輩たちに、その警察官とは知り合いなんだと、大きな声で自慢したいくらいだった。
そんな、いつもよりちょっと軽い足取りで、石段を登りきる。
家々の灯りの向こうにアパートの二階部分をみとめたときだった。
「雨……?」
頭のてっぺんに冷たいものが当たってきた。もう少しで家だというのについてない。
しかし、きょうの俺にはあの傘がある。それをワンタッチで開いて、たまらずこぼれた笑みもそのままに、アパートのドアへと向かった。
鍵をさす。
背後の、ひどくなってきた雨足の中に、それが地面を叩きつけるのとは違うだれかの足音を聞いた。
「まんなかクーン」
ドアの前にいた俺の傘の中へ、その人は勢いよく入ってきた。身長差があるぶん、背中をかなり丸めている。
自慢の髪はびっしょり。昼間見たヘンリーネックのシャツも、肩から胸にかけてめちゃくちゃ濡れていた。
夏日まで気温が上がったとはいえ、そこはまだまだ春先。なにも羽織ってこないなんて、体育会系にもほどがある。
「いやあ、やっぱり降ってきたねえ」
「あんた、人に傘持ってけって言ったくせに、自分はそれぇ?」
俺が呆れ果てて視線を向ければ、濡れた髪を掻き上げ、橘さんは地面を見て笑っていた。
まるで他人ごとみたいに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます