「そういえば、あの石段て、俺とまんなかクンが出会った記念の場所なんだよね」

「なにそれ」


 俺は苦笑をのっけて返した。

 大通りに出ると、歩道を並んで歩いた。

 この通り沿いにバイト先のコンビニがあるのだ。


「ねえ、まんなかクン。記念の石段に、なんか名前つけようよ」

「なに、その女子高生的発想。キモい」

「うーん、なにがいいかなあ。そうだ」


 俺は肩をすくめた。……また人の話を聞いてないし。

 でも、せっかくだから最後まで聞いてやることにする。笑えもしない、とんでもない名前だとは思うけど。

 ところが、橘さんはすでに足を止めていて、険しい表情でどこかを見つめていた。


「急にどうした?」


 視線の行き先を確認していたら、橘さんがいきなり走り出した。ガードレールをひらりと飛び越え、車に気をつけながら道路を器用に渡っていく。

 そうして、四車線を挟んだ向こうの歩道に着いた橘さんは、すれ違っていく自転車へ、なにかを叫んでいた。

 俺は息を呑み、ガードレールから前のめりになってそれを見つめた。

 自転車がスピードを上げた。

 すかさず橘さんが追う。自転車に追いつくと、ハンドルを掴んだ。

 橘さんは、ものすごく抵抗している自転車の人を地面に伏せさせ、背中のところで両手をひねり上げた。その手首に、ジーンズのバックポケットから出した手錠をはめる。

 なにが起こったのかわからないまま、俺は首を伸ばして、その一部始終を伺っていた。

 たまに車高のあるトラックが来て、橘さんの姿を隠す。そうなったら、見える位置まで移動して、向こうの様子をずっと伺っていた。

 やがて、女の人がひとり、橘さんのもとにやってきた。

 地面に伏せさせている男の手を掴んだまま、携帯でなにかをしゃべっていた橘さんは、顔を上げ、その人とも話し始めた。

 はたと腕時計に視線を落とす。バイトの時間が迫っていた。

 向こうのことも気がかりだけど、バイトを遅刻するわけにもいかない。

 しぶしぶ場をあとにした俺の背後で、けたたましいサイレンの音がした。





「佑、聞いた? 昼間、そこの歩道でひったくり犯が捕まったらしいよ」


 バイト終わり、ロッカーで帰り支度をしていた俺は、入れ替わりにやってきた先輩の声で振り返った。


「ひったくり?」

「そ。警察官がたまたまその辺歩いてたらしくて、現行犯逮捕ってやつ。ある意味ヒサンだよな」

「……」


 その警察官が橘さんだと気づくのに、そう時間はかからなかった。もしかしたら、そういうことだったんじゃないかって、仕事中もずっと考えていたからだ。

 俺たちが出会ったあの石段でのことがよみがえる。


「最近、不景気だのなんだので、ここらへんでもひったくりとか増えてるらしいから」


 俺にはもはや、先輩のその声は届いていなかった。挨拶もそこそこにコンビニをあとにする。

 それから、夕飯の買い物にとスーパーへ寄った。

 そこでも、帰り道でも、俺の頭の中では、昼間のシーンがエンドレスで流れている。

 ガードレールを飛び越え、刑事ドラマさながら、危険を省みず車道を突っ切っていく。なおも逃げようとする男をいとも簡単に捕まえ、現行犯逮捕。

 とにかく、めちゃくちゃすごかった。

 そのときの最初から最後を、バカみたいに繰り返すたび、胸のドキドキは増すばかりだ。

 先輩たちに、その警察官とは知り合いなんだと、大きな声で自慢したいくらいだった。

 そんな、いつもよりちょっと軽い足取りで、石段を登りきる。

 家々の灯りの向こうにアパートの二階部分をみとめたときだった。


「雨……?」


 頭のてっぺんに冷たいものが当たってきた。もう少しで家だというのについてない。

 しかし、きょうの俺にはあの傘がある。それをワンタッチで開いて、たまらずこぼれた笑みもそのままに、アパートのドアへと向かった。

 鍵をさす。

 背後の、ひどくなってきた雨足の中に、それが地面を叩きつけるのとは違うだれかの足音を聞いた。


「まんなかクーン」


 ドアの前にいた俺の傘の中へ、その人は勢いよく入ってきた。身長差があるぶん、背中をかなり丸めている。

 自慢の髪はびっしょり。昼間見たヘンリーネックのシャツも、肩から胸にかけてめちゃくちゃ濡れていた。

 夏日まで気温が上がったとはいえ、そこはまだまだ春先。なにも羽織ってこないなんて、体育会系にもほどがある。


「いやあ、やっぱり降ってきたねえ」

「あんた、人に傘持ってけって言ったくせに、自分はそれぇ?」


 俺が呆れ果てて視線を向ければ、濡れた髪を掻き上げ、橘さんは地面を見て笑っていた。

 まるで他人ごとみたいに。

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