マイアンブレラ



 正午になって、バイトへ向かうため部屋を出ると、容赦なく照りつける陽の光に目を細めた。

 そういえば朝、この時期にしては珍しく夏日まで気温が上がるかもしれないと、気象予報士のなんとかさんが言っていた。

 それを思い出しながら部屋に鍵をかける。ショルダーバッグのフタを閉じたところで、砂利を踏みしめるような音が背後でした。


「まんなかクーン」


 その声を聞くと同時に振り返った俺は、笑顔で立つ橘さんの姿に、また目を細めた。

 ま、まぶしい……。

 だが、決して、久しぶりに会うあの人が輝いて見えたからじゃない。太陽を背にしていたからだ。


「まんなかクン、元気だった? 一週間ぶりだね」

「……どうも」

「あ、これからバイト?」

「ていうか、あんた。なんで俺んち知ってるんだよ」

「きょうはさ、めちゃくちゃ暑くなるらしいよ。でも、夕方過ぎには雨が降るんだって。ちゃんと傘持った?」


 俺に近づきながら髪をなで上げ、橘さんは首を傾げた。目でも問いかける。

 それから、ヘンリーネックのボタン部分をつまみ、暑そうにパタパタした。

 ……ゆうべの電話のことも、いまの質問もシカトかよ。

 あいにく、そんなヤツの相手をいちいちしていられるほど、俺はヒマじゃないんだ。

 そのイライラの振り幅に任せ、勢いよく足を出したが、すかさず腕を掴まれた。


「傘」


 なにを言うのかと思ったら、その一言だけ。しかも、変に真剣な橘さんがちょっと怖かった。

 それに、あのなんとかさんていう気象予報士も、雨が降るみたいなことを言っていた気がする。

 俺はため息を吐いて、カバンに手をかけた。きびすを返す。玄関から傘を取ると、もう一度施錠した。

 そうして再び歩き出したとき、橘さんが俺のあとをしつこくついてきた。


「ねえ、まんなかクン。俺さ、ここんとこずっと働いてて、きょうやっと休みなんだ。よかったら、また一緒にご飯でも。今度はプライベートで」

「お断りします」

「ええー」

「だってあんた、こっちが恥ずかしくなるくらい食うじゃん」

「じゃあさ。映画はどうかな。まんなかクンは、どんなやつが好き? 俺はね……」

「俺、映画は観ないんで」


 がくっと肩を落として、橘さんは立ち止まった。俺は構わず置いていく。

 あの石段が近づいてきた。


「ねえねえ、それならさ」

「ああ、もう、うるさい。あんた、警察官として恥ずかしくないのかよ、いい年して。俺は、そういうの迷惑だって言ってんだよ」


 いよいよ我慢ならなくなって、怒鳴り散らした。

 石段を駆け下りる。それでも、橘さんはしつこくついてくるような気がした。

 けど、石段の半分を行ってもなんの声もない。靴の音もしない。

 俺は立ち止まり、ゆっくりと後ろに視線をやってみた。やっぱりだれもいない。

 あんな人なんだけども、急に姿がなくなったから、ちょっと心配になった。

 俺は思わず駆け上がっていって、そこで目にした光景に開いた口がふさがらなくなった。

 橘さんは、子連れの女の人へ声をかけていた。

 たしかに美人だった。だけど、こんなところで、しかも警察官がナンパするなんて、ほんと信じられない人だと思った。

 橘さんがしゃがむ。目線の高さを、女の人のそばにいた子どもと同じにした。それからなにかを言ったあと、その子の頭を撫でて腰を上げた。

 女の人が深々とお辞儀をする。橘さんもそれに応え、頭を下げていた。

 じつにほのぼのした雰囲気だ。

 それを感じた俺は、目の前の光景が、自分が思っているものとはなんとなく違うような気がした。


「まんなかクン」

「え?」

「もしかして俺のこと待っててくれたの?」


 小走りでやってきた橘さんの目が限界まで細くなる。

 俺はその表情に釘付けになっていた。

 はっとなって、背を向けた。あの人のペースに流されないようにもしたかった。


「……で? さっきの人って橘さんの知り合い?」


 石段を半分くらい過ぎた辺りで、やっぱり気になるそれを訊いた。


「ああー……まあ、ちょっとしたね」


 珍しく、橘さんが言葉を濁す。

 言わなくてもいいことまでベラベラしゃべるこの人が。

 そうなると、ますます気になるのが人情というものだ。


「ここじゃ言えないような感じの人?」

「言えないっていうか。なんつうかその、あまりそういうのをちらつかせたくないっていうか……」

「は?」

「いや、うん。ほらあれだ。当たり前のことをしただけだし、いちいち言うのもね」


 だから、つまりはなんなんだ。

 俺がそう首を傾げると、橘さんは照れたように笑いながら、前にその辺の道で困ってたから助けただけ、と言った。


「なんだ。それならそうと、普通に言えばいいじゃん」


 石段を下りきり、今度は大通りへ向かう。

 なにかを思い出したように、橘さんがポンと手を打った。

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