三
「そのときに担当になった事件がきょう、めでたく解決したみたいなのよね。橘くんはああ見えて、意外と繊細なところもあって、事件を解決した途端ものすごい頭痛に襲われるのよ」
頭痛という言葉に、俺はちょっと怯んだ。
しかしだ。よく考えたら、俺だって頭痛ぐらいはする。
だから、あれなんだ。平熱の低い人がちょっと熱を出しただけでも心配になる。そういう心理に近いんだ。この胸のざわめきは。
「刑事課は、外勤ももちろん大事だし、デスクワークもそれなりにあるから、かなりハードらしいのよね。私は、橘くんの主治医だから、ちょっと心配になって顔を出したってわけなの」
「……」
「でも、今回はそんなにひどくもないみたいだから、安心したんだけれどね。橘くん……あ、定岡さんもだけど、向こうにいたときはもっと大変だったみたいだから」
──向こう?
そこは、俺にはなんの話かわからなくて、松宮さんの顔を覗くようにして聞き返した。
すると、グロスの光る唇に指先を当て、松宮さんはさっと身を翻した。
「そうだわ、私。こんなにゆっくりもしていられないんだった」
それじゃあと、俺を見ることなく手を上げて、松宮さんはポルシェに乗り込んだ。あっという間に去っていく。
それにしても、橘さんをさらに忘れられなくなりそうな情報が、また一つ増えた。
ファミレスから、食器ごと料理を持ち帰るような人がデスクワークしていたり、人並みに頭痛に悩まされていたり。
普通に考えれば、警察官という激務の中にいる人なんだから、なにかしらのリスクは抱えているはずだ。
……とはいえ、それがなさそうに見えるのがあの人のような気もする。
バイト先から帰宅し、すぐに夕飯の支度を始めた俺は、キャベツの千切りをしている途中で包丁を置いた。
ジーンズのポケットからあの紙切れを出す。
警察にお世話になることがあれば110番するし、個人的な番号をもらっても困るだけだ。そう思っていたけれど、いつか必要になるときがくるかもしれないと、捨てに捨てられなかった紙切れ。
夕飯を食べ終えたあと、食器もそのままに、俺はもう一度そのメモ紙を見た。
そういえば、ファミレスでは結局、おごってもらった形になったから、それのお礼もかねて電話してみようか。こうして番号を教えてくれたわけなんだし、いきなりかけても迷惑じゃないよな。
「……」
充電器にさしていた携帯を取り、俺は首をひねりながら番号を押した。
それにしても、なんという皮肉だろう。松宮さんの名刺は棚にしまったままなのに、橘さんの番号はもう出番がきてしまった。
三回目のコールで、向こうが電話を取った。
だが、俺の耳に飛び込んできたのは、間延びした女の声だった。
「もしもーし。橘でーす」
「……はい?」
「橘ですけどー?」
間違えてかけたのかと始めは思った。
でも、相手は「橘」だと言っている。
「あの、真中と言いますが、橘……憲吾さんは」
「あ、そっか。すみません、いま替わるんで──」
しかし橘さんは、なかなか電話に出なかった。
大した用でもないし、そんなに忙しいなら無理に話さなくてもいいと思って、俺は電話を切った。
切って、少ししてから首を傾げた。
べつに、橘さんに女の人がいたってぜんぜん不思議じゃない。
引っ掛かったのは、この番号が仕事用の携帯じゃなかったってことだ。
俺はてっきり、橘さんは二台持ちかなんかで、この番号は仕事用の携帯に繋がるものと思っていた。
プライベート用にしても、他人に電話口を簡単に許しているのは、刑事としても、男としてもどうかと思う。
俺はテレビを見ながら、もしかしたら向こうからかけ直してくるかもしれないと、少し待ってみた。
でも、携帯はうんともすんともいわなかった。
名前は告げたから、俺からだというのがわからなかったというのでもない。
そのうち、なんだか腹立たしくなってきて、携帯を座卓の上に投げた。そして、わけのわからないこの怒りを鎮めるべく、風呂場へ向かった。
次の日の朝は、いい加減起きなくてはいけない時間になってから布団を抜け出た。
俺は、座卓の上の携帯にちらっと目をやって、洗面所に向かった。
ふと、思う。
橘さんは、あの時間帯はいろいろ手が離せなかったけど、俺が寝るころになって暇になったのかもしれない。
そういえば、仕事だったとはいえ、ファミレスに誘うのでもしつこくしていた。もしかしたら、めちゃくちゃな回数、折り返しの電話をくれたかもしれない。
慌てて携帯を開いた。
着信ありのマークがついている。俺はビビりながらも、そのマークを押した。
手が震える。
「はいぃ?」
俺は口を開けっ放しで、携帯の画面を睨みつけた。
着信は一件だけしかなかった。しかも、オヤジ。
俺は、なにかものすごい期待をしていた自分が急に恥ずかしくなって、携帯をベッドに叩きつけた。
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