カウンセリングと携番



 飲んだら乗るな、飲むなら乗るな。

 交通事故死亡者ゼロを目指そう。

 そんな垂れ幕を見上げていると、定岡さんに背を押された。パフェを食べながら歩く橘さんのあとに続いて、俺は警察署へ入った。

 初めて足を踏み入れた警察署はある意味普通だった。

 すれ違う人すれ違う人、みんながみんな平然とした顔で通りすぎていく。

 それで、橘さんのこういう奇行はかなり日常的に行われていることだと、俺は悟った。


「ギリギリセーフ!」


 二階の会議室。橘さんは古いドアを開け、スプーンとグラスを持つ手を上げて叫んだ。定岡さんと一緒に前のほうの席につく。


「わざわざご足労いただきまして、誠に申し訳ありません」


 そう言って俺を出迎えたのは、店長に負けず劣らず立派な腹をした年配の男の人。

 そのとなりには、縦じまのスーツをきっちりと着こなしているメガネの若い男。俺に向かってゆっくりとお辞儀をした。

 それから、年配のほうは高木(たかぎ)と名乗って、若いほうは晴海(はるみ)と言った。

 俺は、勧められた椅子に腰をかけながら、晴海さんという人を見た。なんて言うんだろう。警察官らしくないスマートさがある。


「本当に申し訳ありませんでした。あのひったくりの一件に巻き込まれた方がいるとは──」


 話を進める高木さんに目をやった途端、さっき橘さんが言っていた、「ブー課長」という言葉を思い出した。

 なるほど、鼻がちょっと上向きで、人より鼻孔が目立っている。さらにはこの体系。

 思わず吹き出しそうになったけど、必死に顔面を固めて、橘さんと定岡さんに目をやった。なんとかおかしさを紛らわす。

 その二人は、課長さんがいるからか、いやにおとなしかった。

 でも、それは口だけ。パイプ椅子の背もたれに偉そうにふんぞり返っている。橘さんは長い足を投げ出し、定岡さんは足を組み、腕組みもして、欠伸をかみ殺している。


「怪我はされてなかったですか?」

「……ま、まあ」

「心的な部分は? ショックが残っていてあれから眠れないとか、食欲がないとか、なにか影響はないですか」


 俺は首を横に振った。

 あの夜の出来事をふとしたときに思い出したりもしたけど、それで眠れなくなるとか、生活に支障を来たすことはなかった。

 いまはどちらかというと、橘さんの言動から受ける衝撃のほうが大きい。

 なんとか収まっていたおかしさがぶり返してきて顔を俯けたとき、会議室のドアをだれかがノックした。


「失礼します」


 と入ってきたのは、白衣を着た女性。目を見張るくらいの美人で、なにより胸がデカい。

 そこへとあからさまな視線を送っていたことに気づいて、俺は慌てて目を逸らした。焦点を、無理やり顔にずらす。

 しかし、くすっと笑われた。なにもかもお見通しだと言わんばかりの笑顔だった。


「彼女は内科の先生で、署のほうでもお世話になっているんです。心療内科も担当されているから、なにかあったら、彼女に相談されるといいでしょう」

「松宮(まつみや)といいます。どうぞよろしく」


 俺の前に名刺が出てきた。メルアドも書いてある。

 これはプライベートなものではないんだろうけど、いまの俺の目には、わくわくどきどきへのプラチナチケットに見えた。

 すると、橘さんが咳払いをした。

 それで現実に戻った俺は、松宮さんの名刺をそそくさとカバンにしまった。


「課長」


 まただれかがやってきた。中には入らず、ドアから顔を出しているだけだ。

 訝しげな表情をして、課長さんはその人のところへ向かう。それと入れ違いに、二人分のコーヒーをお盆に乗せた晴海さんが俺の前に立った。


「どうぞ」


 カップと、その脇にスティックシュガーとミルクを置く。

 晴海さんに軽く頭を下げてから、俺はスティックシュガーを手にした。


「定岡! 橘!」


 課長さんの鋭い声が上がった。

 定岡さんが素早く腰を上げ、それに続こうとした橘さんは、まず晴海さんのお盆にパフェグラスを乗せた。そして、俺にも手を上げてみせて、定岡さんと一緒に会議室を出ていった。

 場が急に静かになる。

 俺は、スティックシュガーを開けず、テーブルへそっと戻した。

 次に聞こえた松宮さんの声がやけに響いた。


「なにか事件でも起こったのかしら」

「……ですかね」

「晴海くんは向かわなくていいの?」

「俺はこれを返しに行かなきゃならないんで」


 パフェグラスをわずか持ち上げた晴海さんの肩を、松宮さんはねぎらうように叩いた。


「あなたもほんと大変ね」


 それから、俺のほうに視線を移した。


「そういえば、あなた。お名前は?」


 松宮さんは近くの椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。すぐに足を組む。

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