三
「これは俺の。アナタのヤツはそっちとそっちのでしょうが」
俺は顔を上げ、自分の皿を空中に避難させた。そのまま横を向く。
そこはあいにくの通路。たくさんの好奇の目とぶつかってしまった。
俺はゆっくりと反対側を向き、車道を行き交うテールランプを視界に入れた。
「橘さん、ていうか刑事さん。俺、ひとつ言っておきたいことがあるんですけど」
「ん?」
口からスパゲッティをぶら下げたまま、橘さんはこっちを見た。
「あの日、ひったくり犯を捕まえてから、俺のことほったらかしで行っちゃっただろ。俺、ああいうのよくないと思うな。結構いろんな人が見てたんだよ。ケガがなかったからいいものの、一般市民が巻き込まれたのに、警察はなんの対処もなしかなんて、また──」
税金ドロボーみたいなこと言われるよ。
そう続けようとしたけど、テーブルを叩いて立ち上がった橘さんに遮られた。軽い皿は、一斉に何センチか浮いた。
橘さんは、これでもかってくらいに目を剥いている。その口には、まだ細長いものがぶら下がっていた。
「橘さん?」
「忘れてた……」
つるっと、スパゲッティが口に収まる。
ぼう然とそれを見上げていたら、
「橘ァ!」
と、ものすごい怒号が飛んできた。
その声にびっくりして肩をすくめたとき、俺たちのテーブルにだれかがやってきた。
「橘ァ、てめえ。よくも出し抜きやがったな」
そのだれかは、橘さんまでまっしぐら。テーブルにぶつかって、ようやく足を止めた。
橘さんの胸ぐらをむんずと掴み上げる。
「そんなに俺を交番勤務に下ろしたいのか。恩を仇で返しやがって。どうせカオリの肩もみを独り占めしようっつう目論見だろうが、そうは問屋が卸さねえんだよ。おらァ!」
「違うんですよ、定岡(さだおか)さん。出し抜こうなんて、そんなつもりはなかったんです。パチンコの邪魔しちゃいけないと思って、突き止めたあとで連絡しようと思ってたんです。けど、ついつい声をかけちゃってたんです」
「ああァ?」
それまで橘さんに息巻いていた男が、ぐいっと視界を変えた。
俺を見下ろす。
寒気に襲われるほどのメンチ切りだった。
「俺は蔦屋敷署の定岡ってもんだ。お前、名前はァ?」
と、男が顔を近づけてきた。頬に唾がかかる。
「名前はァ? って訊いてんだ」
「はい、真中です」
「よし。ちょっと顔貸せ」
定岡という刑事さんは、俺から皿を取り上げると、乱暴にテーブルへ置いた。
手首を取られる。そのまま引きずられるようにして、レジまで向かった。
「あとから来るやつが払うから」
オーダー表をウェイトレスに押しつけ、定岡さんはファミレスを出た。橘さんの車を見つけるや、その後部座席に俺を押し込んだ。
はたから見たら、俺がなにかやらかして警察に連れていかれるみたいじゃないか。
「あの、これは一体どういうことですか?」
運転席の定岡さんに訊いてみたが、なにも返ってこない。
それから少し遅れて、橘さんが助手席に乗り込んだ。その反動で車が左右に揺れる。
あろうことか橘さんは、まだ少し残っていたスパゲッティを、皿ごとお持ち帰りしていた。デザートにと注文したチョコレートパフェもある。グラスを股に挟むと、フォークをくわえ、器用にシートベルトをしめた。
こうなるともう俺にはなにも言えない。
「タイムリミットまで時間がねえ。急ぐぞ」
サイドブレーキのそばにあった、どこかでよく見る赤色灯。定岡さんは窓から腕を伸ばし、それを車の上につけた。
車内にまでサイレンが響き渡る。
じつにがさつなハンドルさばき。思いもよらないところへ、俺の体は持っていかれる。
助手席の橘さんは口をもぐもぐさせ、こっちへ顔を向けた。
「あの夜の一部始終を見ていた人から、署に、非難ごうごうの電話が入ったんだ。なんで、巻き込まれた人を保護してやらなかったのかって。それで、うちのブー課長がえらい剣幕で怒っちゃってさ。すぐに署へ連れてこないと地域課へ異動させるって」
俺は、体を真っ直ぐにして、深く頷いた。
ほら見ろ。この人たちのあの対応は、やっぱりいただけないものだったんだ。
「まんなかクン。パフェ食べる?」
……なのにこの態度だよ。市民の味方であるべき警察官なのに、この奇行だよ。
フォークをくわえた橘さんは、俺の目の前にパフェグラスを出した。
その満面の笑みとてっぺんが溶けかかったパフェを見て、俺は天を仰いだ。
「そろそろ本気で急ぐぞ。いいか、まんなか。ちゃんとシートベルトして、舌を噛まないように歯を食いしばってろ」
まんなかじゃなくて真中です、というツッコミは、もはやできなかった。
赤色灯をつけた覆面パトカーはある意味無敵だ。ジェットコースターも目じゃない絶叫マシンぶり。
危うく、さっき食べたカルボナーラが口からこんにちはしてきそうだった。
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