第4話 「……」
〇二階堂 泉
「……」
帰ってシャワーして…
部屋に戻ろうとドアノブに手を掛けた所で…気配に気付いた。
…あいつが来てる。
今朝あんな事があって。
あたしは…やっぱりあいつ…敵?って疑い始めてるのに。
ドアの向こうの気配は、何とも…のんきそうだ。
ガチャ
立ち止まったままでいると、向こうがドアを開けた。
「何で来ないの。」
あたしの顔を見て、開口一番…それ。
「…今朝のあれ、何。」
少し睨んで言うと、男はつまらなさそうに。
「今朝のあれ?どれの事。」
聞き返しながら、あたしの腕を取った。
…どれの事?
「…そんなに悪さしてんの?」
近付いた唇に、早口で言う。
今日もやる気?
そう思いながら少し体を引くと。
「悪さ…」
そんな事を言いながらもチュッと軽くキスされて、男の身体が離れてく。
「悪さは…鉢の事?」
「それよ。」
Tシャツを着ながら答える。
男はソファーにあぐらをかいて、頬をポリポリと掻いた。
「あの男を試してみただけ。」
「は…?何考えてんの?」
「側近なら、あの程度、なんて事ないでしょ。」
「わざと落下速度加速させてたわね。」
「分かっちゃった?さすが。」
「……」
こいつ…
大きく溜息をついてベッドにもぐりこむ。
今夜はもう寝る。
クタクタだ…!!
「え?もしかして寝るの。」
「当然。」
「じゃ…俺も寝よ。」
そう言いながら、男はベッドに入り込んで来て。
「ちょ…っと。」
「いい匂い。」
横向きになってるあたしの胸元に顔を埋めると。
「おやすみ。」
本当に…そのまま目を閉じた。
「……」
…何、この甘えん坊な感じ。
柔らかい髪の毛が顎に当たって。
寝息が胸元にかかって。
…悶々としてしまう。
でも、寝るって言ったのはあたしだし。
ムラムラする気持ちを押し込んででも寝なくちゃ。
…って思うのに…
「ん…っ…」
わざとなのかどうなのか。
男があたしの胸に顔を押し当てて。
「…こーしてるだけで…気持ちい…」
可愛い事を言う。
「……ムカつく。」
あたしは男は引き剥がすと。
「責任取りなさいよね。」
起き上がってTシャツを脱いだ。
「…寝るんじゃないの?」
あたしを見上げた男の目は、腹が立つほど楽しそうだ。
「…今日は負けないわよ…」
そう。
もうダメ。って。
あたしが言わせてやる。
って…
「あ……っ…」
「…すごいね…すごくいい…もう一回…」
「や…もう…」
「ダメだよ。今日は負けないんでしょ。」
「……う……」
…負けた。
それからも。
男はあたしの部屋に来た。
だけど、あたしがシャワーしてる間に寝てる事もあったし…
あたしが眠ってから来て、朝起きたら隣にいた事もあった。
部屋に鍵はかかってるけど…
同業者なら、そんなの関係ないって知ってる。
「今日、違うね。」
いつも勝負みたいにセックスをするのに。
今日は…何だか普通にして、男があたしの顔を覗き込んだ。
「…どういう意味?」
「違う事考えてる。」
「当たり。」
「つまんない。」
「……」
つまんない。
そう言った男の顔は、初めて見る表情に思えた。
拗ねてると言うか…怒ってると言うか…
いつも飄々としてるのに、感情が少し出てる気がした。
あたし達がこんな事を続けて…三ヶ月。
誰にもバレてない。たぶん。
二週間前、『セフレがいる』って打ち明けた後から…
今までになく、華月からメールが多く入る。
『ゆっくり会いたい。』
『もっと泉の話を聞きたい。』
あたしは…忙しいふりをして、そのどれもに返事をしていない。
…何だろう。
今までこんなに干渉して来た事ないのに。
「…ねえ。」
「ん。」
「…聞いていい?」
「……」
背中に問いかけると、男はゆっくりと顔だけあたしに振り向いて。
「珍しいね。」
目を細めて笑った。
…ほんと。
三ヶ月…あたし達はスポーツのようにセックスをして、疲れ果てて寝る。を繰り返して来た。
おかげであたしは、この男の名前も知らない。
何となくだけど…
名前を知ったら…終わる気がしたのかもしれない。
でも今は…知ろうとしてる。
それは、終わってもいいって思ってるって事…?
少しだけ自問自答したものの、あたしは振り返った目を見て言う。
「名前、教えて。」
今更だな…って思ったけど、聞いてみる気になった。
「誰の。」
「誰のって、あんたの。」
「…名前なんて要る?」
「尾行対象の名前は知ってるんじゃないの?」
「ああ…そういう事。フェアじゃないって思ってるんだね。」
「そうじゃないけど…」
「え、違うの。じゃ、どうして要るの。」
「……」
このやりとりで何となく気付いた。
こいつ、教えたくないんじゃなくて、本当に要らないって思ってるのかも。
もしかしたら、本当はあたしの名前も知らないんじゃ…?
あたしがゆっくりと背中から抱き着くと、男は不機嫌になってたのか…
「…どうしたの。」
少しだけいつもより、声のトーンが低かった。
「あたしの名前…呼んでみてよ。」
「なんで。」
「こういう時に名前呼び合うと、もっと気持ち良くなるからよ。」
「……」
『気持ち良くなるから』には興味が湧いたのか…
男は体の向きを変えてあたしの腰を抱き寄せた。
「……ケイコ。」
「誰それ。」
「…ミナミ…」
「違う。」
「……ND23556…」
「管理番号は知ってるのに、名前知らないの?」
眉間にしわを寄せて見上げると。
「別に、名前なんて関係ないし。」
男は唇を尖らせて投げやりに言った。
「…あたしは、泉よ。呼んでみて。」
頬を撫でながら、熱を帯びた目で男を見つめる。
「……」
「早く。」
「…い…」
名前を言うかどうかの所で、唇にかすめるだけのキスをする。
「…呼んで…」
「……い…ずみ…」
名前を呼び合ったら、もっと気持ち良くなる。
そう言ったのはあたしだけど…
「泉…」
名前を呼ばれて…感情が昂ったのは…あたしだった。
「あっ…」
「……泉…」
「…もっと…もっと…」
この男とは、三ヶ月の間に…何度も何度も、こうして抱き合った。
なのに…何も知らない関係。
初めて名前を呼ばれて…それだけなのに…
「…名前…教えて…」
耳たぶを舌で弾きながら言うと。
「…トシ…」
男が短く言った。
…トシ…?
その瞬間、頭に浮かんだのは…兄貴がそう呼んでる曽根さんで。
それは呼びたくない気もしたけど…
「…トシ…」
耳元で、首筋で、繰り返し名前を呼んだ。
「泉…っ…」
男はあたしの胸元を痛いほど吸い上げて、そこを赤く染めた。
三ヶ月で…初めての事だった。
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