第5話 男の名前を『トシ』と呼び始めて。

 〇二階堂 泉


 男の名前を『トシ』と呼び始めて。

『トシ』があたしを『泉』と呼び始めて三日。

 それまで名前も知らないままセックスして、朝まで一緒に寝て。

 日中、トシはあたしを尾行したりしなかったり。

 きっと何かの任務なのだろうけど、それもあたしは知らない。


 …トシが名前なんてどうでもいいと思ったように…

 あたしもトシの任務はどうだっていいと思ってるようだ。



 名前を知るまでは、本当にスポーツ感覚だったはずのセックスが…

 …変わった。


 何が、と聞かれると…些細な事なんだけど…

 抱きしめ方と言うか…

 …いちいち、気持ちがこもってる気がしてしまう。


 まあ…そんなの、あたしが勝手に思ってるだけなのかもしれないけど。


 そう思うと、やっぱり要らない情報だったのかなー…って、少しだけ後悔したりもした。


 気持ちが入るとセフレじゃなくなる。

 それに…

 もっと…って。

 さらなる情報を仕入れたくなる。



「…ん?」


 シモンズでコーヒーをテイクアウトして本部に向かってると、前方に薫平の姿が見えた。


 あれ…どうしたんだろ。

 本部に行くのかな。

 もしかして、二階堂に戻る…なんてね。


 勝手な事を思ってると、電話がかかった。


「はい。」


 瞬平が作ってくれたハンズフリーキット。

 小型で全く目立たない。

 捜査の時はいいけど…普段は独り言みたいで気が引ける。


『泉、どこにいる?』


「兄貴?下に居るよ。」


『五分後に大事な会議がある。すぐ来てくれ。』


「…ラジャ。」


 大事な会議?

 何だろ…兄貴、沈んだ声してたな。

 それでなくても、春の一件から二階堂の男達は沈んでる。

 かろうじて、志麻と瞬平は普通に思えるけど…

 兄貴と富樫なんて、いつまで立ち直れないのよ。ってぐらいの撃沈ぶりだ。



「あ…」


 薫平が乗り込んだエレベーターに滑り込む。


「久しぶり。」


 隣に並ぶと、何だか懐かしい匂いがした。


 …おはじきかな。



「どしたの、今日。」


 コーヒーを一口飲んで問いかけると。


「頭に呼ばれた。」


 薫平は首をすくめた。


「お説教かな。」


「何でだよ。」


「やっと回収出来たCA5を直せって言われるとか。」


「あ…あるかも…_| ̄|○」


 ああ…なんだ…良かった。

 普通に話せる。



 薫平とは、あれ以来会ってなかった。

 メールしたけど…返事もなかったし。

 避けられてるのかな…って思うと寂しかったけど、会わなければそれにも慣れた。


 それに…

 寂しいと思う時間がなくなった。

 …トシの出現で。



 二人で会議室に向かうと、別の部屋から瞬平と志麻が出て来た。


「あれ…こっち来てたの?」


 あたしが目を丸くして問いかけると。


「さっき着きました。」


 二人は無表情で答えた。


「…『大事な会議』があるから…って?」


「はい。」


「……何だろ。」


 あたしが三人を見ると…薫平と志麻は首を傾げたけど、瞬平だけは視線を外に向けた。


 …何か知ってるな…



 会議室に入ると、そこには兄貴と富樫と父さんがいて。

 何だか…難しい顔をしてる。


「…何これ。重い話?」


 少しとぼけた風に言って、珍しく資料も何も置いてない机をおかしく思いながら座る。


 何だろ。

 モニターもついてない。

 事件の話じゃない…って事かな。



 全員が座った所で、父さんが話し始めた。


「…実は…うちからSSに人員を欲しいと言われた。」


「…SS?」


 あたしが聞き返すと、父さんは誰とも目を合わさず。


「シークレットセッション…名前だけ聞けば楽しそうに思えるな…」


 机の上で祈るように組んだ指を持て余しながら、早口で言った。


「シークレットセッション…ね…」


 聞いた事ないけど、MI6とかCIAみたいな組織なのかな。

 漠然とそう思いながら、父さんの次の言葉を待つ。


「そこに行くには、全てを捨てなくてはならない。」


「え…」


 小さな声を漏らしたのは、薫平だった。

 志麻は眉間にしわを寄せてるけど…兄貴と富樫と瞬平は、無表情。


 …て事は。

 三人は知ってたんだ…?


「こちら側の世界とは縁を切る事になる。」


「……」


 あたしはそれを、『だから…か』なんて思いで聞いた。

 だから…父さんと兄貴と富樫、暗かったのか。

 瞬平はドイツにいたからどうだったか知らないけど。



「つまり、こっちでの自分はいなくなるって事ね。死んだって事にされるわけ?」


 腕組みをして背もたれに体を預ける。


「…そうだな。」


 ふむ…

 誰が行く事になるのか。

 志麻は喜んで手を挙げそうだけど。


「私に行かせて下さい。」


 思った端から志麻が立ち上がって言った。


「私が適任と思います。」


 わー…本気だよね。

 目がキラキラしてるし。


 だけど父さんは溜息をついて。


「…この話が出た時、うちから…海を家族ごと欲しいと要望があった。」


「っ…」


 父さんの言葉に志麻は息を飲んで。


「…なぜですか。こういった任務に就く者に子供はいない方が…」


 あきらかに…咲華さんを庇った。


 そりゃそうだよ。

 あたしだって…咲華さんとリズ、生まれて来る子供までがそんな所に行くなら…

 あたしが行く。って名乗り出たい。


「…選考委員が経歴と遺伝子で決定した事を知って、先代が取り下げを願い出た。」


「経歴と遺伝子なら…俺も申し分ないはずなんですけどねー。」


 そう言ったのは薫平で。


「何なら、俺行きますよ。あ、でも猫連れでもOKならですけど。」


 志麻の隣で父さんを見据えてる。


 …でも、薫平には…夢があるのに…



「…先代が取り下げを願い出た後、選考委員から調査をし直すと連絡があった。」


「調査…私達は調査されていたと言う事ですか?」


 富樫が硬い表情で問いかけると、父さんは相変わらず伏し目がちのまま頷いた。


「その結果…」


「頭は…もうご存知なんですか?」


「いや…知らない。ただ、このメンバーを呼んでくれと言われた。」


「……」


 みんなで顔を見合わせる。


 あたし達の…この中の誰かが…

 この世界では死んだことになって、SSに行かなきゃいけない。

 それは…

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