第65話 「お待たせ。」
〇桐生院乃梨子
「お待たせ。」
しばらくすると、豊原さんはお茶と何かを手に戻って来た。
目の前にお茶を出されて、小さくお辞儀する。
「…これ。」
次にテーブルに乗せられたのは…小型のテープレコーダーだった。
「聞く勇気ある?」
そう言われて、少し背筋が伸びた。
その雰囲気から、それが良くないものだと分かる。
だけど…
「…はい。」
あたしは…意を決して豊原さんを見つめた。
豊原さんは冷めた目付きでカチッと再生ボタンを押して…
そこから流れて来たのは…
『ああ、桐生院さん?先日はどうも~。口座番号は郵送した通りです。』
わざとらしいほど高い父さんの声。
それを聞いただけで…すごく…嫌悪感…
『…なぜか納品書が二枚ありました。二枚目は金額が書いてありませんでしたが?』
いつもより…もっと冷ややかなおばあさまの声。
『それはちょっと書けませんよね…』
『どうしてでしょう。リフォーム代金ですけど。』
『二枚めのは乃梨子の値段です。』
!!!!
その言葉を聞いて、あたしは目を見開いた。
あたしの…値段…
『…おいくらですか?』
『リフォーム代金と同じです。』
『…お安い事。』
そのおばあさまの言葉にも…あたしは胸を掴まれるような気持ちになった。
父さんが悪いんだもの…仕方ないのよ。
仕方ないって分かるんだけど…
それからも父さんの言葉は続いたけど、もう…何も頭には入って来なかった。
すると豊原さんはそんなあたしを察したのか、静かに停止ボタンを押して溜息をついて。
「あたしはね、こんな事して欲しくなかった。」
低い声で話し始めた。
「元々…仕事の好きな人だったのに…どうしてこうなっちゃったのかしらね…」
「……」
目の前には、両親がしてしまった事の証拠がある。
なのに…あたしは…
まだどこかで…
「…父は…他にも何か…」
誓君に悪評が立った。って…おばあさまが言ってた。
あたしは握りしめた自分の手を見つめながら、豊原さんに問いかける。
「自分の親の悪事を知りたいの?」
「教えて下さい…」
「……」
それから豊原さんは…
両親と母さんの彼氏の三人が…誓君の仕事がしにくくなるようなデマを流したり、教室に怪文書を送りつけたり…
桐生院家に対しても、あたしが子供を産んだ時のために…って、高額なベビーベッドをプレゼントではなく、買い取れと送り付けて来たり…
とにかく…
「こう言っちゃ悪いけど、幼稚な嫌がらせばかりして…あたし、うんざりしちゃったのよね。」
おばあさまと誓君の会話の通りの事を話した。
…あまりの心の醜さに眩暈がした。
わざわざ携帯まで持たせて…あたしを監視してたって事?
…それでも…
電話をかけて『乃梨子か?元気か?』って聞かれた瞬間は…
すごく、すごく嬉しかったのに…
「…手切れ金を…」
昨夜のおばあさまと誓君の会話を思い出して、力なく問いかける。
おばあさまは…痛くも何ともない金額だ。と言われたけど…
ハッキリした数字は口に出さなかった。
「…あなたの親、プライドはないのかしらね。ま…最初から金目当てだから…そんな物はないか…」
豊原さんは呆れたようにため息を吐くと。
無言で指を…三本立てた。
「…さ…三百万…」
リフォーム代と、あたしの値段で一千万も払わせて…
手切れ金で三百万って…
あたしが途方にくれると。
「あなたバカ?三千万よ。」
豊原さんは、目を細めてそう言った。
「さ……‼︎」
「……」
「……」
もう…何も言う気にならなかった。
あたしは酷く猫背になって、自分の足元を見つめるだけだった…。
「…あなたは複雑でしょうけど、あんな親と縁が切れて良かったって切り替えることね。」
一応気遣ってくれたのか…豊原さんは、少し明るめの声でそう言った。
「望んでたお金を手にした事だし…ま、あたしに捨てられるのは誤算だったのかもしれないけど。」
「……」
「あたしは、ここを孝明さんからもらったの。」
豊原さんが部屋を見渡して言った。
「えっ?」
「慰謝料代わりよ。ここを改装して、喫茶店を始めるわ。」
「…そうなんですか…」
慰謝料…そうか…そうだよね…
父さん…あたしになんて構ってないで…早く再婚すれば良かったのに…
「…止められると思ってたのよね。」
豊原さんは伏し目がちにそう言った。
それは…
父さんの悪事を…だろうか。
そうだとしたら…あたしだって。
あたしだって…両親と桐生院家の仲を取り持てるはずって…
「最近は連絡取ってなかったの?」
「…はい…」
「今、あなたの両親は」
「もういいです。」
気が付いたら…遮ってた。
今、どうしてるかなんて…もう知りたくない。
こんな事なら…解かり合おうとしなければよかった…
あたしが両手で頭を抱えてうなだれると。
「…あたしから言わせたら…」
豊原さんは、溜息交じりにうんざりした声で。
「あなたも親と同じよ。」
斜に構えて…そう言った。
「…え…?」
「大事な人が、どんな気持ちでそばにいるかなんて…全然気付いてない。」
「……」
「あたしが…どんな気持ちでいたか…孝明さんは何も気付いてくれなかったし…意見しても『もう少し待ってろ』って…そればかり。」
あたしはそれを…
あたしのどこが、父さんと同じなの?って気持ちで聞いていた。
誓君がどんな気持ちでいたかなんて…
…ずっと普通にしてたから…分からないよ…
「あなた…あたしの名前知らなかったでしょ。」
豊原さんにそう言われて、あたしは少し固まってしまった。
「…すいません…」
「まあ…孝明さんはあたしの話もしないほど、あの家からお金を巻き上げる事に必死だったんだろうけど…あなた、父親の恋人に興味はなかったのね。」
「……」
「あたしに限らず、他人に興味なさそうだものね。」
「!!!!」
その言葉に、あたしは眉間にしわを寄せた。
た…確かにあたしは、ずっと他人に興味を持ってなかった。
だけど…
誓君と付き合い始めて、それはちゃんと…
「この前、あなたの旦那さん…あたしを睨んだわ。『何も言うな』って目でね。」
「…え…」
「見事に何も知らされてなかったのね。親に騙されてる事も、あの家の人達があなたを守ってた事も。」
…あの家の人達…
「過保護に守られて羨ましいけど…」
「……」
「どこに行っても、あなたは受け入れられてないのね。」
豊原さんの言葉が…胸に刺さった。
…そうだ…
あたしは…家族として受け入れられてないから…何も知らないんだ…
「…ご迷惑を…おかけしました…」
深くお辞儀をして、帰る事にした。
だけど…どこをどうやって帰ったのか分からない。
気が付いたら桐生院家のガレージにいて。
運転席に座ったままでいると、学校から帰ったサクちゃんに窓をノックされて気が付いた。
「乃梨子姉、いつからそこにいるの?」
「……」
「…乃梨子姉?」
子供達に心配なんてかけちゃいけない。
そう思うのに…
あたしは、サクちゃんの前で泣いてしまった…。
体調が悪いと言って、部屋に引き籠った。
心配したお義母さんと義姉さんが、部屋の前で声をかけてくれたけど…
あたしは『今日はもう休ませて下さい』とだけ言って…顔を見せなかった。
「…乃梨子。」
泣き過ぎて気を失うように眠ってしまってると、誓君の声が聞こえた。
ベッドの脇に座って…あたしの頭を撫でる誓君。
「…豊原さんから電話があった。」
「……」
「つい…傷付けるような事を言った…って。謝ってくれって。」
「……」
「…だけど、あの人のせいじゃないよね…」
誓君は何か言おうとしては言葉を飲み込むようにして…
「…僕が…」
何度かそう言っては…無言になった。
…違う。
全部…全部あたしが悪いんだ。
誓君と釣り合うわけなかったのに…桐生院家にお嫁に来てしまった、あたしがいけないんだ。
あたしが…
「乃梨子、聞いて。」
突然。
誓君が、あたしの身体をガシッと掴んで抱き起した。
驚いたあたしがその腕を拒もうとすると…誓君はそれを許さないと言った風に…ギュッとあたしを抱きしめた。
「本当に…全部僕が悪い。ごめん。」
耳元で聞こえる誓君の声は…すごく…すごく苦しそうで…
どうして…誓君が謝るの?って…
あたしはそう思うのに、言葉が出なくて…
「おばあちゃまは…乃梨子に話そうって言ってたんだ。」
…え…?
「だけど…僕が止めた。乃梨子が今まで築けなかった両親との絆を、今度こそって思ってるなら…そして、両親にもそれが伝わる日が来るかもしれないって…僕も少なからずとも信じたくて…」
「……」
その言葉に…違和感を覚えた。
あたしと両親は縁を切った事になってた…
なのに…どうして…そんな…
あたしが誓君の顔を見上げると。
「…ごめん。乃梨子が…連絡を取り合ってるの、知ってたんだ…」
誓君は目を伏せて…唇を噛んだ。
「…どうして…?」
「…結婚式の日、控室に…」
「……」
「ごめん。」
あたしは誓君の腕から離れてベッドに座ると。
「…知ってるなら…どうして…言ってくれなかったの!?」
声を荒げて言ってしまった。
「あたし…ずっと後ろめたくて…」
「…ごめん…」
言い出せなかった自分が悪いのに。
誓君は悪くないのに。
あたしは…誓君を責めた。
「自分の親がこんな酷い事をしてるって知ってたら、もっと早く諦めがついたのに!!」
誓君だって傷付いてる。
あたしの両親に傷付けられた。
なのに…あたしまで…
「ごめん…乃梨子、ごめん。」
誓君があたしの腕を掴んで引き寄せる。
だけどあたしはそれを拒んだ。
「触らないで!!」
分かってる…誓君は悪くない。
悪いのは…あたしの両親。
そして…
生まれてしまったあたしだ。
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