第63話 「わあ…」

 〇桐生院乃梨子


「わあ…」


 あたしはその景色に感嘆の声をあげた。


「近場でごめんね?」


 誓君はそう言ったけど…

 旅行経験が小中学校の修学旅行しかないあたしは、例えそれが隣県であろうと嬉しくてたまらなかった。


 早乙女君と史さんのお祝いに行った後、簡単な買い物をして誓君が車を走らせたのは。

 うちの実家とは反対方向の隣県にある、小さな温泉だった。

 和室の部屋の窓から見えるのは、オレンジ色の空をまとった海。



「来た事あるの?」


「おばあちゃまが生徒さん達とよく来るみたいなんだ。それですぐ予約も取れちゃったよ。」


「そっか…」


 確かに、おばあさまは生徒さんとよく日帰りで旅行されてる。

 そして、その先々での美味しい物を買って帰ったり…

 そういうのって、あたし達の心の栄養にもなるよね。



 …最近、両親から子供の事を言われ続ける事にうんざりしてるあたしと。

 反対に何も言わない桐生院家に、期待されてないのかな…って小さくなってしまってるあたしがいる。

 そんな中で卑屈になってしまうのは…とても簡単な事で…

 あたし…みんなの優しさをちゃんと受け止められてない気がする。


 …ダメダメ。



「何?」


 隣にいる誓君が、小さく首を振ったあたしに笑いかける。


「あ…う…うん……あのね…?」


「うん。」


「……」


「どうした?」


 ストン…と、誓君の胸に頭をぶつける。


 何だかこうしてると…この一年がまるで夢だったんじゃないか…なんて思えて来る。



 結婚して一年…

 今まで通り仕事に通って、帰宅後や休みの日は、桐生院家や麗ちゃんの子供達と遊んで…

 そんな中でも、いつか変化がやって来る。って、あたしは勝手にそう思ってた。


 その『変化』とは…あたしの妊娠だ。


 本当に漠然とそう思ってたあたしは、史さんに妊娠報告された時。

 異空間にいるような感覚になった。


 …目覚めたのだと思う。

 単なる想像の世界にいた自分から。


 父さん以外の人からは、妊娠についてとやかく言われなかったのをいいことに…

 自分の中でも『結婚したらその内自然にやってくる出来事』の一つとして捉えてたに違いない。


 子供が欲しくない両親にだってあたしが出来たんだ。

 だから、きっとその内…って。



 だけど、史さんはあの時言った。

『妊娠計画はないの?』って。

 計画しなくても出来る人には出来るんだろうけど…

 あたし、自分がこんなにモヤモヤしちゃうなら…もっとちゃんと妊娠について向き合うべきよね。


 それなのに…

 期待してくれてる両親に、冷たく当たってしまった。

 ほんと…ダメだな…



「…誓君。」


「ん?」


「…子供って…何人ぐらい欲しい?」


「え?」


 誓君の胸に身体を預けたまま、小さく問いかける。

 本当は…自分から言うのは恥ずかしいと思ったけど…

 素直に言ってみた。


 すると…


「…乃梨子さえ良ければ、たくさん…」


 誓君は嬉しそうな声でそう言って…あたしの髪の毛にキスした。






「おはよ。」


「…おはよう…」


 目が覚めると、誓君はもう起きてて。

 あたしの髪の毛を撫でながら。


「いい朝だね…」


 ゆっくり抱きしめてくれた。



 夕べ…

 誓君は、あたしさえ良ければたくさん子供が欲しいって言ってくれた。

 …すごく…すごく、嬉しかった。


 今まで何も言ってくれなかったのは、あたしのプレッシャーになるといけないからだったらしい。



「桜花は、初等部と中等部の時って、修学旅行あったの?」


 朝食の後、手を繋いで海辺を歩いた。


「あったよ。初等部の時は近場だったけど…中等部の時は男子は北海道で女子は沖縄だった。」


「えっ?男女別だったの?」


「うん。僕らの次の年からは一緒になったみたいだけど。」


「そうなんだ…」


 桜花には高等部から入ったあたしは、それまでの事を全然知らない。

 あの頃は、自分の明日以外に興味もなかったからなあ…


「乃梨子は?修学旅行はどこに行ったの?」


「小学校の時は…」


「うん。」


「どこかに行ったけど…覚えてない…」


「あはは。」


「中学は…」


「うん。」


「…遊園地だったかなあ…」


「楽しかった?」


「……」


 誓君の質問に、あたしは首をすくめる。

 友達ゼロだったあたしが、遊園地に行ったところで…


 あ、でも…


 一人で乗ったティーカップや観覧車は楽しかったかな。



 久しぶりに子供の頃の事を思い出した。

 だけどそこに笑顔のあたしはいなくて。

 そう思うと…

 あたしは、自分の子供をいつも笑顔にさせてあげたいと思った。



「…じゃ、行こうか。」


 誓君が、握ってる手に力を込めた。


「え?どこへ?」


「遊園地。」


「…え?」


「僕は一度も行った事ないから、付き合ってよ。」


「…誓君…」



 それからあたし達は、旅館の人に聞いて…一時間ほど車で走った場所にある遊園地に行った。


「うわー!!」


「きゃー!!」


 二人でジェットコースターに乗って。


「ひー!!」


「えーっ!?誓君高い所ダメなの!?」


 観覧車で泣きそうになる誓君にビックリして。


「わー!!」


「あははは!!」


 お化け屋敷で腰を抜かす誓君に大笑いして。


「あはははは!!」


 本当に…笑いっぱなしの一日で。




 桐生院に…帰りたくないな…なんて。

 ちょっと思ってしまった。



 〇桐生院 誓


 思いがけず、乃梨子と一泊旅行…旅行って言うほど大げさな物じゃないけど。

 それでも…いまだに新婚旅行に行けてない僕達にとっては、初めての旅行が出来た。


 …楽しかったな…



 乃梨子は人生二回目の遊園地で、意外にもその心臓の強さを見せた。

 僕は過去何度か、数人で行った事はあるけど…食わず嫌いって言うか…

 たぶん無理だ。と思って見てる側だったから、ほぼ初体験。

 そしてやっぱり無理だった。ってガッカリもした。


 だけど…

 乃梨子がずっと笑顔で。

 それが嬉しかった。



 結婚したと言うのに、僕と乃梨子の間には付き合ってる時よりも溝が出来ていた。

 それは…普通にしているつもりでも、僕の中には『いつ打ち明けてくれるだろう』って乃梨子を待つ気持ちが膨らんでて。

 気になるなら僕から聞いてみればいいのにと思いつつ…

 乃梨子が自分で決めて秘密にしてるなら、それを壊したくない僕もいる。



 結婚式の日…乃梨子の元にご両親が会いに来られた事。

 携帯を渡されて、秘密で連絡を取り合おうと言われた事。

 乃梨子が…それらを僕に打ち明ける気になるまで。

 静かに待つだけだ。


 そう思っていたものの…

 ずっと悶々としてしまってた。


 どれぐらいの頻度で、電話をしているのだろう。

 何か強いられていないだろうか。



 結婚してからの僕達は、お互いを探り合ってるみたいで…全然夫婦になれてなかった。

 だけど、夕べ。

 乃梨子が初めて『子供何人欲しい?』と言って。

 ああ…僕の考え過ぎだったのかな…と思った。


 乃梨子の元気がないのは、ただ単に…桐生院家に慣れないからかもしれない。

 今は仕事も辞めて、慣れない花の仕事の勉強もさせられてる。

 …それについては…乃梨子を守るためだったんだけど…

 理由をちゃんと話してない分、きっと乃梨子の中ではおばあちゃまが悪者になってるよね…


 いつかきちんと全てを話せる日が来るといいんだけど…

 …それか、全部話さなくても済む日が来れば…



「お土産、お饅頭で良かったのかな。」


 乃梨子が紙袋を覗き込んで言った。


「いいよ。みんな、それ好きだし。」


 ウインカーを出して、最後の交差点を曲がる。



 …どうにか二人でゆっくり旅行したいな…

 そのためにも、仕事の量をどうにかしなくちゃ。


 そんな事を考えてると…


「…え…」


 乃梨子が後ろを振り返った。


「ん?どうした?」


 バックミラーで後ろを見る。


「あの人…」


 ハザードを出してゆっくりと車を停める。

 その人は、僕達に気付いて立ち止まってるようだった。


「…ちょっと行って来る。」


「待って、乃梨子。僕も…」


 慌てて車を降りた。


 そこにいた人は…

 乃梨子のお父さんと、再婚の約束をしていた女性だった。




 〇桐生院乃梨子


「あの…もしかして、あたしに用が…?」


 誓君とプチ旅行から帰ると。

 桐生院の近くに…父さんの彼女がいた。


 …再婚する予定だって言ってたけど、したって話聞かないな…



「……」


 そう言えば、名前も知らない。

 だけど今更聞くのも失礼な気がして…あたしは無言になった。

 すると、父さんの彼女はあたしと誓君をジロジロ見た後。


「…幸せそうね。」


 腕組みをして、低い声で言った。


「…あ…はい…ありがとうございます。」


 お祝いを言ってくれたのだと思って、お辞儀すると。

 女の人は呆れた顔で。


「…のんきね。」


 ついでのように、溜息をついた。


「…のんき?」


「豊原さん。」


 え?と思った。

 誓君が、その人の事を…そう呼んだから。


 名前…どうして知ってるの?


「……」


 女の人は誓君を見て無言になった。

 誓君を見ると、何だか…無表情って言うか…


「…誓君、何か知ってるの?」


 何ってわけじゃないけど…ふとそんな気がして問いかける。

 自分でもどうしてそんな事言ったんだろうって思ったけど…

 とにかく、この瞬間…そう何かを感じたから。


「え?何かって?」


 問いかけにそう言った誓君は、いつもの顔に戻ってて。

 あたしは…普段は気付かないのに。

 なぜか、誓君の瞬きが少ない事に違和感を覚えた。


 それはたぶん…

 その女性を睨んでた…からじゃないかな…



 …察するに…

 誓君は『何か』を知ってて。

 それは…父さんの彼女…『豊原さん』も関係してる事で。

 だけど、それはあたしに知られたくない…事。


 咄嗟にあたしの頭の中にそんな図が出来て。

 すごく胸がざわついた。


 あたしにも秘密がある。

 父さんに携帯を渡されて、みんなには内緒で連絡を取り合ってる。

 いつか両家が和解できるよう…あたしがその役目を出来たら…なんて思ってたのに。

 気が付いたら、期待と心配をしてくれてる両親に冷たい言葉を放ってしまってた。

 ずっと干渉されずにいたせいか…構われる事を鬱陶しく感じてしまったんだと思う。


 …こうして考えると、あたしって…

 親に期待はしてない、諦めた。って思ってたクセに、なんて贅沢なんだろ。


 このプチ旅行で心のゆとりを取り戻せた気がする。

 あたし…明日父さんに電話して謝ろう。



 こんな場面で一人反省してると。

 豊原さんは小さく溜息をついて。


「…あたし、孝明さんと別れたの。」


 低い声で言った。


「え…っ?」


「まあ…籍を入れる前で良かった…って思う事にするけど…結婚をちらつかせて待たされてる間に三年も経ってた。」


「……」


「あの人には、あなたって娘がいるからいいけど…あたしは初めての結婚を心待ちにしてたし、それはあたしの親も同じ。でも…気が付いたら出産もどうかなって年齢になっちゃってる。」


 見た目はすごく若く思えるけど…

 出産が難しい年齢って、いくつなんだろう…



「ほんと…あなたに言うのは、ただの八つ当たりかもしれないけど…あなたの親、ろくでなしね。」


 その言葉に、あたしは目を見開いた。


 あたしの親は…ろくでなし?


「あ…あの…どうして…別れたんですか?」


 あたしが一歩詰め寄って問いかけると。


「…乃梨子、失礼だよ。」


 誓君があたしの腕を取った。


「でも…」


「みんなそれぞれ理由があるんだ。」


「……」


「きっと。」


 豊原さんを見ると、彼女は腕組みをして小さく笑って。


「…そうよ。色々あったの。だけどあたしは孝明さん側に行けなかった。」


「…行けなかった?」


「ええ。性格の不一致に、ようやく気付けたのよ。」


「……」


「あなたが現れなかったら、今頃幸せになってたかもしれない。でも現れたから不幸になったわけでもない。知りたくなかった事を知ってしまったけどね。」


 まるで、誓君に止めさせないって感じで、早口に言った。



 知りたくなかった事を知ってしまった。

 それは…

 あたしという娘がいた事?


 それとも…


 他の何か?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る