第9話 「…学祭?」

「…学祭?」


「うん。去年はどうしてたの?」


 お昼の食堂。

 桐生院君は首を傾げてあたしを見た。


 あたしも同じようにして、桐生院君を見る。


「…バイトに行ってた。」


「…だよね。」


「だって…サークルも入ってないし、特にする事ないから…」


 あたしの答えに桐生院君は『うんうん』と頷いた後。


「今年はバイト入れないように。」


 今日も美味しそうなお弁当を食べながら言った。


「…何で?」


「一緒に歩こうよ。」


「…あたしと?」


「目の前で誘ってるのに、気付かないと大問題。」


「う…」


「何も試してないから。」


「……」



 あの日…二人きりの桐生院邸で。

 あたし達は…少しのキスと、長くてハードな抱擁をした。


 体が離れた後の展開が想像出来なくて。

 あたしは…ドキドキしたまま桐生院君の胸に顔を埋めていた。


 すると…


「…外に出ようか。」


 桐生院君が、小さな声で言った。


「…え?」


「今日…夜まで誰も帰らないんだ。」


「…そう…」


「このままここにいたら、理性が…」


「理性?」


「…とにかく…」


 桐生院君は、背中に回した手で…優しくポンポンとあたしの頭を叩いて。


「今日は…嬉しかった。ありがとう。」


 そう言って…体を離した。



 温もりが逃げていくのが名残惜しかった。

 それほどに心地良かった。

 もし、これがいつも体験できるなら…

 あたし、桐生院君と友達以上になってもいい。とさえ思った。


 だから…

 あたしの脳裏には、よこしまな考えさえ浮かんでいたと言うのに。

 恋愛ビギナーのあたしに、そこまで妄想させた桐生院君は。

 さっさとあたしの手を引いて家を出ると。


「映画、観に行かない?」


 と、いつもの柔らかい笑顔で言った。



 映画。

 実は一度も行った事がない。

 小学校の時に体育館で見た、名作映画。

 内容なんて覚えてないけど…

 あれが、あたしが観た唯一の映画だ。



「これでもいい?」


 桐生院君は映画館の前で、もう観ると決めてたのか…恋愛ものの洋画を選んだ。

 そして…それは主人公が大失恋に終わる映画で。

 もれなく桐生院君は大号泣でそれを観た。


 あたしは…

 そんな、大号泣してる彼の手をギュッと握って。

 なぜか…泣いた。


 映画が悲しくてとか。

 桐生院君にもらい泣きとか。

 そんなんじゃなかった。


 なぜ涙が出たのか分からない。


 ただ…何だか、すごく切なかった。

 切なくて涙が出るなんて…初めてだ。



 あたしが握った手は、いつの間にかちゃんとあたしに応えてくれるみたいに手の平が合わさって。

 終わりの歌の頃には…指を組み合ってた。



 その後、映画館の裏にあった洋食屋さんで晩御飯を食べた。

 付き合ってくれたお礼。って、桐生院君が奢ってくれた。

 映画のお金も払ってないから…って、割り勘にしようとしたけど。

 彼は『それじゃ気が済まないから』って。


 …そんなの…

 あたしなんて、今日は桐生院君の唇まで奪ってしまったのに。




「…試してないって…別に、そんなの疑ってないし。」


 唇を尖らせて、桐生院君のお弁当箱の中から玉子焼きを一つ拝借。


「じゃあ、いい?」


「…うん。」


「良かった。」


「……」



 あの翌日から、また…桐生院君とのお昼休みが始まった。

 何もなかったみたいに。

 手も繋がないし、抱き合いもしないし…キスもしない。


 塚田さん、桐生院君、と呼び合って。


 それは…心地いいはずだったのに。

 なぜか…



 物足りなくなってた。






 その学祭は10月で。

 その前にはガッツリ夏休みもあるわけで。

 あたしとしては…何か約束でもして、同じ時間を共有したい…なんて気もあったんだけど。


 桐生院君は、二十歳としては普通じゃない夏休みを過ごさなくてはならないらしく。


「いつが休みって決まってないんだ。」


 って、あたしを少しだけ…ガッカリさせた。


 あ、ガッカリって…違う。

 いや…違わない…

 んー…


 でも。


「バイトのシフト、教えてもらえる?」


 と言われて、あたしは少しだけウキウキしながら勤務表を渡した。

 もしかしたら、来てくれるの?って…

 毎日張り切ってバイトに行った。


 だけど、待ち焦がれてる桐生院君はなかなか現れなくて…

 少し疲れ始めてた、夏休みに入って二週間め。

 ようやく…桐生院君がやって来た。



「久しぶり。元気だった?」


 バイト終わりにレストランの外で会った時は、疲れた心の花に栄養剤を注入された気分だった。



「桐生院君がオーダーしたの、和風パスタ?」


「よくわかったね。」


「美味しかった?」


「少し濃かったかな。」



 あたしは厨房でひたすら洗い物をしたり、盛り付けを担当してる。

 だから、接客はしないし…

 彼が来たとしても、席まで行くことも出来ない。



 他愛もない会話をしながら公園に辿り着くと。


「次のシフト、出てる?」


 桐生院君があたしの顔を覗き込んだ。


 あたしは…家に電話がない。

 アパートの一階の隣に住んでる大家さんの家が連絡先になってるけど、それに電話がかかった事は一度もない。


 …あ、一度あった。

 他のバイトの子が体調不良で休むから、出て来れないか。っていうのが。



 それは、バイト先と学校と…実家だけが知ってる番号。

 桐生院君には『電話がない』としか言ってないから、彼はこうして律儀にバイト先に足を運んでくれる。



「うん。昨日出た。これ。」


「ありがと。」


 勤務表を渡して『ありがとう』って言ってくれるなんて。

 なんか…あたし、贅沢を味わってる気がする。



「少しは休みがあるの?」


 あたしの勤務表を眺めてる桐生院君の横顔に話しかけると。


「うーん…あるようなないような。」


 彼は夜空を見上げて。


「空いた時間で新しい企画を考えたりしてると、あっという間に時間が経っちゃって。」


 何だか…楽しそうにそう言った。


「新しい企画…」


「うん。普通に花を生けるだけじゃなくてね。もちろん、ちゃんとした華道を学びながら、何か…もっとフランクに花に触れ合うための企画って言うか…」


 …ああ。

 すごいなあ。

 桐生院君、本当に跡継ぎなんだ。

 すでに生徒さんを抱えてるとは言ってたけど…

 それって、何となく…

 あの家に生まれて、仕方なく敷かれたレールを走ってるのかも…なんて。

 勝手に解釈しかけてたあたしがいた。


 だけど、夏休みがなくても。

 桐生院君は楽しそうだ。

 花に囲まれて。

 花の事を考えて。



「塚田さんは?休みの日に海とか行かないの?」


 桐生院君が夜空からあたしに視線を移した。


「…一緒に行く人がいないって分かって聞いてる?」


「あー…会わない間に、そんな人が出来たかなって。探り入れてみた。」


「え…」


「出来てないなら良かった。」


「……」


 良かった…?


「き…桐生院君は?」


「え?」


「海…行くような人…」


「僕?」


「だって…生徒さんとか…」


「僕の生徒さん、みんな奥様だからなあ。」


「…ひと夏のアバンチュールとか…」


「あはは。ないよ、そんなの。」


「……」


「……」


 突然沈黙が訪れて。

 あたしが訳の分からないドキドキに支配されてしまってると。


「…もっと…会いたいな。」


 桐生院君が、つぶやいた。




 …あたしも…

 あたしも!!


 って…


 言うべき!?





「誓?」


 あわよくば、あの時の心地いい胸のぬくもりを再び…なんて思ってる所に、桐生院君を呼ぶ声が聞こえて。

 あたしは、自分の考えてた事がバレてしまったんじゃないかと緊張した。


 二人で声の方向を振り向くと…


「義兄さん…」


「よお。晩飯にいないと思ったら、デートか。」


 お兄さんはジャージ姿で…

 いつしか見た外車に乗ってた時とは、随分違う印象だった。


「こんな所まで走ってんの?」


「いつものコースが工事中なんだよ。」


 走ってる…?

 有名人なのに、走る?


 あたしが首を傾げて二人を見てると。


「ツアー前だから体力作りだって。」


 何かを察した桐生院君が、あたしに小声で言った。


「ツアー前…」


「全国コンサート。」


「えっ…す…すごい…」


 あたしの小さな驚きに。

 桐生院君は苦笑いしながら『説明が足りてなかったかも』ってお兄さんに言った。


 …そうだ…

 あたし、いまだにお兄さんの歌を聴いてない。

 次の休み、本屋とレコードショップに行ってみよう…



「えっ…ちっちが…」


 あたしが一人で考え事してると、隣では桐生院君とお兄さんの内緒話が始まってて。

 それに対して桐生院君が赤くなって…何か否定しかけて…


「違うのか?」


「…違わない…」


「ふっ。なら上手くやれよ。」


「…ありがと。」


 そんな会話をして。

 あたしが首を傾げてると。


「誓をよろしく頼むぞ。」


 お兄さんは、あたしの目を見て言った。


「…はい?」


「じゃあな。」


「……」


 誓をよろしく頼むぞ。


「…よろしく頼まれちゃったけど…」


 走っていくお兄さんの背中を見ながらそう言うと。


「…塚田さん。」


 突然、桐生院君があたしに向き直った。


「え?」


「…僕と、付き合って下さい。」


「…え…っ?」


「…ダメ…かな…」


「……」


 付き合って下さい…って…


 映画とか買い物に…って…

 違うよね。


「え…えーと…付き合うって…」


 分かってるクセに。

 ドキドキして…頭が回らない。


 付き合うって。

 付き合うって…


 あの、心地いい抱擁が…当たり前になるんだよ…


「…塚田さんの事、好きだ。」


「……」


 つい…

 大きく口を開けてしまった。

 そんなあたしを、桐生院君はしばらく見つめてたけど…


「…ごめん………ぷっ…」


 小さく謝ったと思うと、あたしに背中を向けて噴き出した。


 顔見て笑われるのは心外だけど、桐生院君が笑うのは…嬉しいんだよね。



 …好き…

 あたしの事、好きって言ってくれるなんて。

 ううん…

 好きになってくれるなんて。


 今まで、誰にも言われた事のない言葉。

 あたしの事、好きって…


「……」


 あらためて考えると、すごく感激な事で。

 まるで走馬灯のように辛かった出来事が脳裏を駆け巡り。

 その最後に…桐生院君が初めて『ここいい?』って、食堂で声を掛けてくれた時の事がよみがえった。


 …あたしのどこを好きになってくれたんだろう。

 そんな疑問も湧いたけど…

 今は、ただただ…嬉しい。



「…えっ…あ、ごめん…笑ったりして…」


 桐生院君が、あたしの顔を見て青ざめた。

 どうして謝るの?と思ったら…

 あたし、泣いちゃってた。


「あ…あ、これは…その…」


「……」


「…あたしの事、好きって言ってくれたの…桐生院君が初めてだよ…」


「…え?」


「生まれて初めて、好きって言われた。」


 頬を流れる涙を拭いながら、あたしは桐生院君を見つめる。


「ありがと…なんか、すごく…満たされた気分…」


「……」


「でも…あたしなんかでいいのかな…」


 あたしがそうつぶやくと。

 桐生院君はそっと…あたしの両肩に手を掛けた。


「…僕の事、どう思ってる?」


「…え?」


「好き?」


「……」


 そう聞かれると…ハッキリわからないあたしもいる。

 だって、今まで恋をした事がない。

 好意はあるけど、それが恋人になるそれとは…分からない。

 何と比べたらいいか分からないし。



 だけど…あたし、自分からキスしたよね。

 だったら…



「…うん。」


「ほんと?」


「うん…」


「…じゃあ、付き合ってくれる?」


「…よろしくお願いします…」


 あたしがそう言った途端。

 両肩にあった桐生院君の手が、あたしを抱きしめて。

 あたしは…あの心地いい温もりに包まれた。


「…ありがとう…」


 耳元で聞こえる桐生院君の声に。

 それは…あたしの方だよ。

 あたしは、心の中で、そうつぶやいた。

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