第36話 「……」
「……」
拓人が帰って…
あたしは一人、ストンと椅子に座って…暗い気分になった。
あたしが生まれ育ったのは…イタリアのトスカーナ州。
フィレンツェ…って言うと大きな街を想像されそうだけど、あたしの家は賑やかな街と少し離れた、田舎と街の中間ぐらいにあった。
近所の人はみんな陽気で、あたしの母さんもそうだった。
あたしは…自分の小さい頃がどうだったかなんて…ちょっともう思い出せない。
…特殊な血を引いてる。
そんな事、何も知らなかった。
何も知らずに…母さんと笑って暮らしてた。
七歳の時、父親だという男が…現れた。
すごく若かった。
聖君とお姉さんよりも…あたしと父親は年齢が近かった。
片足を引きずってる父親は、目付きの鋭い人で…最初は怖くて近寄れなかった。
だけど会ってる内に…可愛がってもらえるようになって…『お父さん』と呼ぶようになった。
ずっと居るわけじゃない。
時々来て…泊まる日もあったけど、それはめったになかった。
子供ながらに、自然と…お父さんには他にも家庭があるのかもしれない…なんて思った。
だけど、父さんが来ると母さんが幸せそうで。
あたしも幸せになった。
束の間の三人での生活。
それは、憧れていたものに近かったかもしれない。
10歳の誕生日。
いつものように…父さんがやって来た。
何か違和感があったけど…あたしは気付かなかった。
近所の写真屋のおじさんが、フィルムが余ってるから、って三人の写真を撮ってくれて。
それはあたしの宝物になった。
そして…その日から一ヶ月後。
あたしと母さんは…逃げ出した。
理由は分からなかった。
ただ…
「もうここには居られないわ。逃げるわよ。」
母さんが…そう言って、車に乗り込んだ。
霧の濃い夜だった。
曲がりくねった峠道を、母さんは…まるで何かに追われて焦っているかのように…スピードを出して走った。
その様子に、あたしは何も言えなかった。
怖い。
そう思っても…口に出せなかった。
あたしが覚えてるのは…
後ろから、大きな衝撃を受けた事…
ガードレールを突き破った車が宙に浮いて…
まるで霧の中に沈むように…
「……」
頭が痛くなりそうになって、両手で押さえ込む。
…あたしは…
静かに暮らしていただけなのに…
母さんと、小さなクリーニング店で…
笑って暮らしていただけなのに…
気が付いたら、殺風景な小屋の中にいた。
身体中が痛かった。
だけど手当はしてあった。
何があったのかを…思い出そうとした。
そして…あの宙に浮いた瞬間を思い出して、身震いした。
…母さんは?
小屋の中で母さんを探したけど…何もないそこを探すも何も…一度見渡しただけで分かった。
あたしは…一人だ。
…誰もいない。
自然と、自分のケガの具合を見て…母さんは生きていないかもしれない…と感じて涙が出た。
どうして…あたしがこんな目に…?
誰か…母さんがどうなったか教えて…
助けを呼ぼうにも…声が出なかった。
身体も痛くて動けない。
あたし…このままどうなるんだろう…
毎回…目が覚めるたびにそう思いながら…
痛みで気を失う事もあれば、突然睡魔に襲われて眠る事もあった。
意識が戻って数日経つと、包帯が換えてある事や、食料がそこに置いてある事に気付いた。
その小屋自体も…季節は冬であるにも関わらず、寒さを感じないほど温められていた。
常に…そばにあったストーブの火が、煌々と温もりを放ってた。
…誰かが…あたしを助けようとしてくれてる…?
痛みを堪えながら、食料を口にした。
生きて…母さんがどうなったのか…知りたい。
そう思ったからだ。
ずっと一人だった。
だけど、あきらかに…誰かがあたしを守ってくれていた。
あたしが眠っている間に訪れる『誰か』を、あたしは知る由もなく…
やっとケガが治った頃には、新しい服も用意されていて。
あたしは…それに着替えて外に出た。
外は…一面雪の世界だった。
たぶん、まだ一月そこらで…
その雪原を目の当たりにして、あたしは途方に暮れた。
…こんな所に独りぼっちで…あたし…
これからどうなるの…?
一歩外に出たものの、すぐに小屋に引き返して…泣いた。
あたしはもう…一生ここから出られない。
数日、泣いて暮らした。
だけどある日…自分じゃない泣き声が聞こえて…目が覚めた。
するとそこには…男の子がいた。
ストーブの横で、両手で目をこすりながら…泣いてる男の子。
それが…拓人だった。
喋りたいのに…声が出なかった。
もしかして、事故で声が出なくなってしまったんだろうか。
泣いてる拓人がかわいそうで、声をかけてあげたかったのに。
…一言も…発せられなかった。
そのもどかしさに泣きそうになってると…
「……」
拓人が、あたしに気付いた。
「……」
「……」
しばらく、見つめ合った。
あたしはゆっくりと拓人のそばに行くと、隣に座って…膝を抱えた。
すると拓人も…同じように膝を抱えて座って…
チョコン、と…あたしに寄り掛かって来た。
…可愛い。
一人っ子だったあたしは、近所の兄弟の多い家族にすごく憧れていて。
今、あたしに寄り掛かって来た拓人を…一瞬のうちに愛しく思った。
こんな子が弟なら良かったのに…
そう思った瞬間…
「…僕…お姉ちゃんとは、お母さんが違う兄弟なんだって…」
拓人が…そう言った。
「……」
え?
色々問いかけたかったけど…それでも…
あたしの声は出なかった。
あたしの声が出るようになったのは…拓人と出会って二ヶ月後だった。
季節は春で。
拓人が森まで行って、狩りをして帰って来た時だった。
…拓人は七歳だったけど…
すごくしっかりしていた。
最初こそ泣いてたけど…
それ以降は、あたしを守るかの如く…
川で魚を釣ってきたり、森で動物を狩って帰ったり…
それをちゃんと処理して…あたしに食べさせてくれてた。
…あたしは姉なのに、姉らしい事が何も出来てなかった。
ただ…
拓人が狩って来る動物達の断末魔の叫びを聞くのが嫌で…
いつも…毛布にくるまって、耳をふさいでいた。
…生きていくために…食べなきゃいけないのにね…
嫌な役目は全部拓人。
それでも拓人は文句も言わず、狩りに出かけた。
だけどある日……父さんが来た。
だけど、拓人が言った。
「こいつ、父さんじゃないよ。」
「…え?」
「父さんは足が悪いんだ。だけど、こいつは走れる。」
「……」
あの違和感は…それだったんだ。
確かに…この『父さん』は…
顔はそっくりなのに…足は引きずっていない。
父さんにそっくりな男は、無理やりあたしと拓人を車に乗せて。
あたし達に銃やナイフを渡して。
「生きるためだ。闘って来い。」
そう言って…知らないの街の片隅に…
あたし達を、放り投げた。
それからは…毎日生きた心地がしなかった。
そこは『訓練所』と呼ばれる所らしく…訓練所とは名ばかりで…
殺し合いを趣味にしてるような人達が集まる場だった。
使った事もない銃やナイフを手にした所で…あたしには何も出来るはずもなく。
当然…ここでもあたしは拓人に守られた。
「ど…どうして…そんなに強いの…?」
あたしの問いかけに、拓人は…
「…僕は物心ついた時から、こんな生活だったよ…」
信じられない事を言った。
「…どうして?」
「…知らないの?僕達の父親の事。」
「…どういう事…?」
「……」
拓人は、あたしの問いかけには答えず、ただただ…毎日、あたしを守るために戦ってくれた。
そんな生活が二年続いたある日…拓人がポツリポツリと話し始めた。
「…『一条』って…昔、大きな組織があってさ。」
「…一条…」
「俺達の父親は、そこに生まれ育った人間なんだよ。」
拓人は、九歳にして…すっかり大人びた顔をする子供になっていた。
『僕』って言ってたのに『俺』になったし…身長も随分伸びた。
その訓練所で生き抜くために、知恵もつけたし…嘘も覚えた。
あたしにも特別な訓練を受けた方がいい…って、集中力や武器の使い方を教えてくれる人の所に連れて行ったり…
あたしは…自分で向いてないと思いながらも…
ここで生きるためだ…って…
拓人にばかり頼ってちゃ、姉として不甲斐ない…って…
それなりの事を身につけるよう努力した。
「口に出して言うとダサいけど、世界征服を企んでた組織でさ。だけど結局…滅ばされた。」
「…滅ばされた…?」
「俺達の父親と、その双子が…トップを殺したんだよ。」
「……」
「父親が足を引きずってるのは、その時のケガのせいだ。」
「…お父さんが…そんな事…」
足を引きずってやって来る父さんは、いつも母さんに花を一輪。
大事そうに…持ってやって来てた。
目付きは鋭かったけど…あたしの頭を撫でる手は…優しかった。
「…ま、本当なら兄弟が10人ぐらいいるのが普通らしいけど、俺達は二人だけだったみたいだし…その辺は父親を評価してやってもいいかな。」
「……」
あたしの母さんは…『一条』とは関係ない人だったみたいで…
だけど拓人のお母さんは…『一条』の人だったからか…
小さな頃から、訓練が本格的だった…と。
そして、ミッションの途中で『一条』に反旗を翻した父親達は…
「…俺の母親は、一条派だったから…父親に殺された。」
「…そんな…」
「…生き残りが…一条を立て直そうとしてるって。それを…父親達は阻止しようとしてる。」
「け…警察に任せちゃダメなの…?」
「警察になんて…手に負える相手じゃないよ。」
「……」
だからって…どうして、子供のあたし達が…こんな目に遭うの?
あたしは、『一条』の事を知って。
自分の身体に『人を殺す』のが当たり前な組織の一員だった父親の血が流れてる事を知って…
生きる事が嫌になった。
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