少女画家と戦闘機(三)
昼間の熱暑とは打って変わって、夜は肌寒いほどだった。
来客用の寝室で横になっていたラウラは、目をこすりながら周囲を見渡す。
壁にかかった時計を見る。時刻は夜中の二時をすこし過ぎたところ。
オフィスで正式な契約書を取り交わしたあと、テオにこの部屋に案内されたところまではかろうじて覚えている。
昼間の疲れが出たのか、いつのまにかうとうとと眠り込んでしまっていたらしい。
まぶたを閉じ、何度か寝返りを打ってみるが、いったん目が冴えてしまうとそう簡単に眠りにつくことは出来ないものだ。
ラウラはベッドから起き上がると、足音を立てないように部屋を出る。
たしか、
建物の外に出たところで、ラウラはふと足を止めた。
格納庫の扉から細い灯りが漏れている。
(そういえば、整備がどうとか言ってたっけ)
ラウラがおそるおそる格納庫のなかを覗き込もうとしたのと、背後で足音が生じたのは、ほとんど同時だった。
「そこでなにをやっている?」
視線の先に立っているのは、
ひと目見たとたん、ラウラは昼間とは違う雰囲気をユーリから感じ取っていた。
ユーリの身体は、抜身の刃のような剣呑さをまとっている。
顔立ちもこころなしか引き締まって見えるのは、無精ひげを剃っただけが理由ではないだろう。
「ユーリさん――」
「こんな夜更けに散歩か?」
「あの、わたし、どうしても眠れなくて……」
ユーリはちらと格納庫を見ると、唇の前で人差し指を立てる。
「いまは格納庫に入らないほうがいい。
「もしかして、テオさんは一晩じゅうずっとひとりだけで整備を……?」
「それがあいつの性分だからな。いったん取り掛かると、気が済むまで止まらん」
「私より歳下に見えるのに、そんなことが出来るなんてすごいです」
「画家とおなじだ。
それだけ言って踵を返そうとしたユーリを、ラウラは小声で呼び止めた。
「……ユーリさん、すこしだけ付き合ってもらってもかまいませんか」
「仕事の話は済んだはずだ」
「わがままを言ってるのは分かってます。駄目だと言うなら、このまま部屋に戻ります」
ユーリはふっとため息をつくと、飛行服のポケットから懐中電灯を取り出す。
だいぶガタがきているのか、スイッチを入れたあとも光量は安定せず、何度か不規則な明滅を繰り返した。
ようやく点灯した懐中電灯を滑走路に向けながら、ユーリはひとりごちるみたいに呟いた。
「ちょうど滑走路の点検をしようと思っていたところだ。そのあいだに終わる話なら、俺の後ろで勝手に話せ」
格納庫から離れた二人は、連れ立って滑走路の上を歩きはじめる。
舗装こそされていないものの、固く突き固められた滑走路は端から端まできれいに均されている。
地上に降りた飛行機はひどく脆い。それはどんな機体にも共通している宿命でもある。わずかな凹凸に引っかかっただけでも着陸脚はたやすく折れ、吸入口に異物が飛び込んだだけでも
滑走路に異状がないか確認することは、離陸に先だって絶対にやらなければならない重要な点検項目だった。
「私の生まれた家は鍛冶屋だったんです。もう何百年もむかしから、村で一軒だけの鍛冶屋を代々継いできました。自分もご先祖様とおなじようにこの土地で生まれて死んでいくんだって、父さんはいつも言ってました」
ラウラはユーリの背中を見つめながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「だけど、うちには男の子が生まれなくて。ひとり娘のあたしは、本当ならよその職人と結婚して鍛冶屋を継がせなきゃいけなかったんです」
記憶の断片を一つひとつ手繰り寄せるように、まだ乾いていない傷口におそるおそる触れるように。
ラウラの語り口はあくまで坦々として、どこか他人事みたいな響きがある。
「でも、あたし、小さいころからどうしても画家になりたかった。都会の学校でちゃんと絵の勉強をして、自分の
「……」
「戦争が終わったあと、ずっと閉鎖されてたマドリガーレの国立美術学校が学費免除の特待生を募集してると聞いて、すぐに願書を出したんです。父さんは絶対に駄目だと言って、受験することも許してくれませんでした」
ラウラは声を詰まらせた。
二人のあいだを沈黙が埋めていく。
やがて口を開いたのは、意外にもユーリのほうだった。
「それで、家出してきたのか」
「はい。……着の身着のままで夜行列車に飛び乗って、マドリガーレに住んでた遠縁の親戚の家に転がり込んだんです。試験もパスして、やっと落ち着いて父さんに手紙を書けるとおもった矢先に、故郷があんなことになってしまって……」
「ガリアルダ人民戦線の一斉蜂起は誰にも予測出来なかった。事前に動きを察知していれば、ポラリアの駐留軍があそこまで総崩れになることはなかっただろう」
「けっきょく家を飛び出してからいままで、父とはなんの連絡も取ってません」
どうにか言葉を絞り出して、ラウラは顔を俯かせる。
ポラリアを激しく敵視するガリアルダ人民戦線は、ポラリアの衛星国に成り下がった他の国々を糾弾し、戦後の文化を精神的腐敗の産物と位置づけた。
外国産の文学や映画の輸入が御法度とされただけでなく、個人間の手紙のやり取りに至るまで、国民の思想的汚染を防ぐという名目のもとに一切禁止されたのである。
「あたし、今年いっぱいで美術学校を卒業するんです。ようやく画家として生きていく目途も立ちました。ただ、父さんとのことだけがずっと気がかりで」
「それで、自分の成長の証として絵を届けたいというわけか」
「はい――」
「君の父親がいまも生きているという保証はどこにもない。そして、受取人が生きていようといまいと料金はおなじだ。高い金をドブに捨てることになるかもしれないが、それでもいいのか?」
あくまで冷たく言い放ったユーリに、ラウラは言葉を失った。
ただでさえ気候が厳しいことで知られているガリアルダ半島である。
ここ数年来の自然災害や食糧難によって少なくない犠牲者が出ているとは、どんなに厳しい情報統制を敷いても漏れ聞こえてくるものだ。
さらにはかなりの数の人間が当局にスパイの嫌疑をかけられ、ろくな裁判も受けられずに処刑されているという噂もまことしやかに囁かれている。
ラウラはいままでなるべく考えないようにしていたが、父がすでに死んでいるということは充分にありえるのだ。
「あたしは父さんが生きていると信じています。だけど、もし父さんがもうこの世にいなかったら……」
ラウラは両拳を固く握りしめると、塊を吐くようにその先の言葉を口にしていく。
「そのときは、私の絵を故郷の土に埋めてください。母さんが眠っている、エルベナシュの大地に」
ユーリは答えなかった。
冷え冷えとした夜風が音もなく滑走路を渡っていく。
気づいたときには、二人は滑走路の端に辿り着いていた。
フェンスの前で立ち止まったユーリは、ふいにラウラのほうを振り向いた。
澄んだ
「気象局の予報では、明日のガリアルダ半島は快晴だそうだ」
「ユーリさん……?」
「絶好の飛行機日和だ。それに、荷物が雨に濡れる心配もない」
ユーリはその場で身体を翻すと、ラウラの傍らを通り抜ける。
去り際、青年はあくまで穏やかな声で告げたのだった。
「配達完了のサインをもらえるように祈っていてくれ。あれがないと、仕事を終わらせた気がしないからな」
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